遅ればせながら『PERFECT DAYS』という映画を見た。監督のWIM WENDERSはインタビューで、端的に“トイレ掃除に身を捧げている男の物語”と語り、また、主人公は“すべての物事に対して愛情のこもった見つめ方をします”といった趣旨の話もされている。
私も見終わって、まるで禅僧のようだとすぐに思ったのだが、監督も、イメージの元は、そうだと言っていた。禅の修行をほんの少ししたことがあるのだが、自分の身を忘れて修行に集中する、というイメージが強い。まさにトイレや庭の掃除などの作務を行っているときは、見た目には、まったくこの映画に重なるものを感じた。
色々な評論や感想を見てみると、やはり、禅の修行のようだと書いているものが多い。
それぞれもっともで、賛成できる意見ばかりなのだが、全く違うことも連想したので記しておこうと思う。
それは映画の中に出てくる、「木、小さな植物」を見て、思い出したものである。
主人公は、トイレ掃除の帰りに、近くに生えている数センチくらいの木の芽を、大切に
持って帰り、一人暮らしているアパートで鉢に入れて育てている。
全くとんでもない連想なのだが、それは、キリスト教の瞑想法の一部で行われる修行である。
七段階の瞑想のはじめのもので、「足洗い」と言われている。第一段階の内容をかいつまんでいうと、こうなる。
師が弟子に言う。
「植物が土より高次の存在であったとしても、土がなければ 植物は生きていかれない。動物も植物より高次だが、低次の植物のおかげで生きていける。人間も同様。
より低い階層の前に身をかがめて、より低い階層のおかげで、私は生きていける。」
こう瞑想しながら、長期間にわたって、高いものは低いものに身をかがめなければならない、という感情に没頭する。これを徹底すると、まるで水が自分の足にそそがれているような感情を持つ。
この瞑想と映画と何の関係があるのか、と自問してみると、「高いものは低いものに身をかがめなければならない」ことと、監督自身が発言した「光と木々とホームレスに敬意を表するようになる」が、重なって聞こえた。高いものと低いもの、職業の貴賤。そのあり方、考え方が、通常抱く感覚と逆であることがわかる。
かつて裕福で有能なビジネスマンは、なぜ、満ち足りず、嫌気がさしたのだろうか?
そして、何が起こって、今の生活を、微笑んで続けているのだろうか?