人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけます

日記を書く意味

高橋巖先生は、日記をつけることをよく勧められていた。

重大な体験でも、高尚なことでもなく、ただ日常行ったことや

思ったことをそのまま書けばよい、という。

「今日はカレーライスを食べました。」で、かまわないという。

その理由は、何もおっしゃらなかった。

今になってこれを人智学的に考えてみると、これはどういう意味を

持っていたのだろうか? ちなみに、私は今日お昼にカップラーメンを

食べました…。

 

人智学では、毎晩寝る前にその日を振り返ってみる一種の瞑想を

提唱している。しかも逆の時間順で振り返るのである。夜ベッドに

入った→歯を磨いた→テレビを見た→夕食は〇〇だった→……と

いうふうにして、朝起きるまでを思い出す。

 

この方法は考えてみるに、自己の客観視と関係していると思われる。

人間にとって最も難しいことは、古代ギリシア以来、自己認識だと

言われるが、本当にそう思う。自分のことは自分が最もよく知っていると

思っていても、決してそんなことはない。自分でも気が付かない

仮面をいつもかぶっているからである。

 

人智学では、“自分を他人のように見なす”という訓練を行うように

促している。いわば自分の外に出て、自分を見つめる、ということ

だろうか。言い換えれば、常に今自分は何を考え、何を行っており、

他人に対してどうふるまっているか、などを認識するということである。

全く困難なことだとは思うが、必要なことと感じる。

一日を振り返ってみれば、そこには「外から見ることできる」私がいる。