人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

お金とは巨大なパーティーの食卓?

一般的にお金とは、「社会的な信用に基づいて、価値の交換・測定・保存を可能にする仕組みである」と言われている。物々交換の不便さを解消し、すべてのモノの価値を共通の単位で表し、時間を超えて保持できるもの、というわけだ。

お金は、機能であり、仕組みであり、信用なのだ、という考えに以前から違和感を抱いていたのだが、私は経済学が最も不得意で、その違和感を長い間解消できなかった。

人智学は、精神科学ともいわれるように、心や魂やスピリットを扱うことがたしかに多いのだが、経済についても研究はされている。個人的には苦手意識から遠ざけていたのだが、少し勉強したので、わかったことを書くことにした。

人智学では、お金は「人間の未来への関係」とみている。現代の一般的な見方では、お金は「止まったもの」としての貨幣と捉えるが、シュタイナーは「流れるもの」と見た。お金を、ストックではなくプロセスとして見た、ということだ。人間同士の関係の流れを媒介する“生きたプロセス”とも言っている。

現代の解釈とシュタイナーの解釈をまずは箇条書きで、対照してみていくことにしよう。

お金は「労働の蓄積の結晶」とみるのに対し、お金は「何かをした証明」ではなく 「これから他者の働きを受け取る権利」とみる。

「モノの交換」に対し、人間同士の相互依存のネットワークとしてみる。パンを買うとき、パンというたべものを買っているのではなく、「パン屋の働き・農家の働き・流通の働きを受け取っている。」という考えだ。

また、「お金は血液のように流れなければならない」とも言っている。溜め込まれたお金は社会の循環を止める、という主張だ。社会の構造の中で、経済は生命系であり、循環系であることを示している。

さらに、お金には、三つの形態があるとみた。日常の消費に使われる「購買貨幣」、未来の生産にかかわる「貸付貨幣」、教育・芸術・宗教などの文化へ流れる「贈与貨幣」だ。シュタイナーは、贈与貨幣をいちばん重視した。

シュタイナーにとってお金とは、人間同士の未来的関係を流通させる生命的媒体であり、理想は、“稼ぐために働く社会ではなく、他者のために働き、その循環としてお金が流れる社会”という姿だった。

かなり抽象的な話になってしまったので、日常感覚で書いてみることにする。

コンビニでパンを買って500円払うとする。普通は「パン=500円の価値」と考えるが、シュタイナー的にはこう見る。「農家が小麦を育て、工場が加工し、トラックが運び、店員が並べた」という「たくさんの人の働き」を受け取っている。500円はその働きに対して“未来に別の形で返す約束”なのだと。

働いて給料をもらうとき、普通は「働いたからお金をもらった」と考える。シュタイナーは逆に考え、もらったお金は「これから他の人の働きを受け取る権利」、つまり給料=過去の報酬ではなく、給料=未来の生活へのアクセスとみる。

銀行にお金を貯めるとき、普通は「将来のために蓄えている」のだが、シュタイナー的には、お金を‘貯める’つまり‘止める’と、社会の流れも止まる、とみる。血液が止まると病気になるように、お金が止まることは経済の停滞を意味する。お金は本来使われることで生きてくる、と考える。

誰かにプレゼントをするとき、もちろん見返りなど求めず、ただ相手のために使う。これがシュタイナーのいう「贈与貨幣」のはじまりだ。社会の中で一番大事なお金の使い方はこれだとさえ言っている。教育や芸術、子ども、未来の人間、こういうものはすぐ利益を生まないが、未来を作る。

シュタイナーの主張は、お金の問題は経済ではなく、「人間は自分のために生きるのか、他者の中で生きるのか」という問いそのものだった。お金は自分のもの、お金は価値の塊、という観念に縛られている人には、理解しがたい考えだと思う。

ところで、“未来に別の形で返す約束”ということが、わかりにくいので、もう少し言葉を重ねてみる。

パン屋はパンを渡す。受け取った人はお金を渡す。ここで普通は「これで終わり」と感じる。交換完了だ。でも本当は終わっていない。500円は世の中から消えてなくなったわけではない。続いているのだ。なぜかというと、パン屋はその500円で、野菜を買ったり、家賃を払ったり、子どもの教育に使ったりする。つまりそのお金は別の人の未来へ流れていく。

これは、人が500円払ったとき、「私は将来、誰かのために働きます」と“無言で約束している”と言い換えられる。お金は「その場の交換」でとどまらず、社会全体のリレーのバトンとなって動き続けるのだ。

考えてみると、私は今、他人が作ったものを使って生きている。食べ物や服や家や電気などなど。これは、すでに他人の労働を“先にもらっている”といえる。だから私は、未来に別の形で社会に返す必要がある、と考えることはできないだろうか?

ただ、パン屋に直接返す必要はないし、同じものを返す必要ももちろんない。私ができることを、必要な人に、適切な形で返せばいい。誰も「直接返していない」が、全体として循環している、というイメージだ。

社会は「巨大なパーティー」のようなものだ。みんなが料理を持ち寄るが、食べる順番はバラバラ。私も誰も「先に食べている側」だから、後で何かを持ってこないといけない、という図絵だ。

お金とは、「私はこのパーティーに参加し続けます」という表明といえるのかもしれない。

受け取ったものは、流さなければならない。これは、道徳などではなく、生命の法則のようなもの。自然界の水や体内の血液が流れ続けなければ、大変なことになる。返さないと罰せられる、とか、倫理的に正しいから返す、ではなく、返さないと、そもそも全体が成り立たない、という鳥観図的な見方といえるだろうか。

もし社会の全員が、「受け取るだけで与えない」としたらおそらくすぐに崩壊する。みんながどこかで何かを与えているからこそ、私も今何かを受け取れる。

現代は、仕事が「意味」ではなく「収入のため」になっていて、誰に何を返しているのも見えにくい。返す感覚が喪失している社会ともいえる。だが、シュタイナーは、現代のこの“詰まり”は、「自由を獲得した結果としての一時的な歪み」とみていた。

「私はすでに受け取って生きている」
「だから流すことで世界に参加している」

こんな瞑想ができるといいなと思う。

お金を使うときは、「失う」ではなく「流す」と思う。
働くときは、「稼ぐ」ではなく「返す」 と思う。
与えるときは、「減る」ではなく「循環させる」と思うように努力したいと思う。