お釈迦様は、生まれたときに七歩歩いてから「天上天下唯我独尊」とおっしゃったという伝説が残っている。今日は、‘七’という数字について考えてみた。
仏教には「七覚支」という悟りの要素があるそうで、念、択法、精進、喜、軽安、定、捨というそうだ。お釈迦様の七歩はこれに対応し、悟りへの道をすでに歩み終えている存在としての象徴とみることもあるらしい。
仏教での説明は難しいので、この七つを、「愛する人と出会ってたどる七ステップ」だとしたらどうなるのか、を考えてみることにした。自分自身の経験も参考にしながら。
最初は「念」。これは“気づく”ことだといわれるが、たとえば、初対面なのに「この人は運命の人だ」と直感すること、に当てはめてみよう。恋をすると、世界がまるで違ったように見えた経験を持つ人も多いと思う。世界とのファーストコンタクトだ。今まで見えていなかったものが見える。また、その逆に盲目的にもなる。そんな始まりだ。
次は「択法」。‘ちゃくほう’と読む。よく注意して観る、というような意味。相手のことをもっともっとよく知りたくなる。どんな性格なのか、趣味は?仕事は?などなど。ただ、この段階では、“高熱”状態なので、見誤ることも多い。
次は「精進」。つながりを深めようとする気持ちが出てくる。ただ、好きだ、では、もう収まらない。相手のために、自分ももっと磨かなければ、という意識が生まれる。
そのあとは「喜」がくる。生の歓喜とでも言ったらいいのだろうか。生きていてよかった!という感情。仏教者もこの基本はわかっている。この喜びは快楽ではなく、「相手と心魂が結ばれる」という感覚だ。相手と巡り会えたことの喜び。これはなにものにも代えがたい。
それから「軽安」。心身が静まり、安らぐ状態をいう。言い争いもあった。喧嘩もあった。別れようとも思った。でも、激しい登りのあとに見晴らしのいい平原に出るように、人との関係の道にも峠のようなものがあるのかもしれない。喜びが静けさに戻ると、これはもう本物だ。
そして「定」に入る。迷い続けていた心がまとまり始める。それとともに、相手と自分の境目も薄くなってくる。「あなただからわたし、わたしだからあなた」、の世界だ。長年一緒にいるとお互いが空気のようなものになってくる、という考えに納得できるようになる。
七つ目は、「捨」となる。せまい自己から解放される、のような感覚だろうか。そうすると不思議なことに、相手のすべての欠点が良いもののように見えてくる。山頂では、常に景色は素晴らしい。あとは、二人でゆっくり下っていくだけだ。
八歩目は、また、一歩目の「気づき」から始まる。どんな小さなことでも、その意味を考えるようにしたいものだと思う。日常生活での一つ一つが、すでに七覚支の実践になっている。