人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

二つの祝辞

入学式が行われる時節に、式辞や祝辞について思ったことがあるので、残しておく。

入学式の祝辞を考えていると、言葉の重さやそれが持つ責任感を特に意識してしまう。式典で地位のある人が語る言葉なので、特に目立って感じるのだと思われるが、入学式に限らず、どんな場面でも「表に現れた言葉の背後」によって、ずいぶんと受け取る側の心情が変わってくるように思う。

まったく同じ言葉を語っていても、どんな動機から発しているかによって、全然、意味と力が変わってくる。例えば、こんな言葉。

「あなたを心より応援しています。」

AIが出力した言葉だったら、そこには、利他的な精神という動機は存在していない。文脈から判断して、そういう場合に人間はどのように言葉を発してきたかを集約し、うまく組み合わせているだけだ。仮にそれが「心ない、その場しのぎ」の励ましだったとしても、AIはそれを真似てしまう。責任は、人間の側にある。

このような、言葉の二面性を踏まえて、祝辞を考えてみた。

個人的な経験からなのだが、いままで聞いた祝辞は、とても形式的でなにか空虚な言葉が羅列しているという印象が強い。誰にでも使える語彙で、「立派な大人になってください」、「成功を祈っています」、「これからの社会を担う責任ある行動を」といった趣旨の印象がある。学校は、社会に適応できる人間を作りたいのだ。このような言葉は、まことに「もっともで正しい」言葉だとは思う。問題があるとすれば、正しい言葉が力となって流れ、届いているか、ということだ。極端な文例をあげると、こんな感じだ。

「学校生活では、勉強はもちろんのこと、部活動や行事など、さまざまな経験を通して、自分自身を大きく成長させていくことができます。ときにはうまくいかないことや、悩むこともあるかもしれません。しかし、その一つひとつの経験が、みなさんをたくましくし、将来の力となっていきます。また、社会は日々大きく変化しています。その中で、自ら考え、判断し、行動できる力を身につけることが、これからますます大切になります。本校では、そのような力を育むことを目指し、教職員一同、全力でみなさんを支えてまいります。」

たいへん立派な祝辞だが、私にはむなしく聞こえる。実際は、もっと巧妙に感動的に表現されるとしても。

シュタイナー教育では、子どもを一人の魂として、時間の中で成長し続けている存在としてみているので、「よく来ました」という深い歓迎の心と“まだ現れていないもの”への敬意が前提となっている。

だから、たった一言で祝辞をいうなら、“Welcome”、「よくここまで来たね」だけでも成立する。

シュタイナー学校では、祝辞は詩のようになる。こんな感じだ。

「小さな旅人たちよ、あなたがたは遠いところから来ました。その手の中には、まだ見えない贈り物があります。私たちはそれがゆっくりと開かれていくのを、ともに見守るでしょう。これからみなさんは、たくさんのことを学びます。言葉や数、歴史や自然、芸術や身体の動き。けれども、本当に大切なのは、それらの中で何が起こるかです。遅れている人も、進みすぎている人も、本当はいません。ただ、自分の歩みがあるだけです。自分自身に出会っていく旅となることを、心から願っています。」

もちろん、このような「美しい」言葉には、それを言いたいという動機がなくてはならない。シュタイナー学校では、教師の内面が問われるのだ。「心から願っています」と表明される言葉と、心魂がそのような状態にあることとは、一致しなくてはならない。

祝辞は本来、その生徒を生まれてからずっと見続けてきた人しか言えないのかもしれない。本当に見ていた人が、本当にその道のりを知っている場合だけ、祝辞を口にする資格がある。多くの場合は、親だ。その子を何も知らない「偉い人」が何を言っても伝わるはずはない。

シュタイナー学校の教師は、「生まれてから」ではなく、「生まれる前から」見ようとする。でも、そんなことは口には出さない。心の奥で笑顔で一人一人の生徒を見つめているだけだ。