人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

お彼岸に想うこと

お墓参りをしながら、こんなことを考えた。

「死者の霊魂は実在している」と表現するとオカルト扱いされ、
「死者の霊魂は心の中でいつまでも生きている」と言うと、万人に同感される。
この違いは、どういうことなのだろうか?

それは、「気持ちの持ちようの問題なのでどちらでもいいではないか」という気もするが、もう少しすっきりさせたいとも思う。

お墓の前では、亡くなった父母の顔が思い浮かぶし、生前のことばや行為が次々と思い出される。怒られたことも優しくされたことも心配をかけたことも。すべてが懐かしいし、悲しみも寂しさもまだある。父母との関係は終わっていないという感じがずっと続いている。これは、確かに私の心の中で起きていることだ。

だから父母は“心の中にいる”という説明ができるし、それで自分も納得感はあるのだが、それだけで言い切っていいのかと、迷うことがある。私の中に、どこか「父母が実在していてほしい」という願いのようなものがある。

父母の記憶がよみがえるだけでなく、“向こうから来てる感じ”がすること、がたまにある。夢の中とか、目覚める瞬間とかだ。これは、あくまで「感じ」なので、私の内面で、あるいは脳内でそう思っているだけなのかもしれない。だが、わたしの“内面”とは本当に自分だけのものなのか、時々わからなくなる。これは、哲学上、認識の客観性をめぐる難問―「主客一致の問題」にもつながっている。

ルドルフ・シュタイナーのような立場では、「死者は実在するが、同時に、人間の内面を通してしか出会えない」と考える。これはおそらく、苦し紛れの折衷的表現ではない。別の言い方では、「死者は実在する。しかし感覚器官では知覚できない。思考や良心や静かな内的経験の中で出会う」とも言っている。そして、「死者は生者の“思考の中”で最もよく語りかける」とも。

思考の中で語りかける、とはどのようなことなのか。生きている人間は、死者を自分の意識の“外部にある対象”として思い出し、考える。記憶像のようなものだ。だが、「死者は生者の思考そのものを“場”として経験しているのだ」、という風に考えるとすると、「霊は実在か、心の中か」という問いが立てられない象限での観かたのような気もしてくる。どちらが正しいか、という次元で扱うことではないような事柄なのかもしれない。

向こうにいる死者を一方的に理解するのではなく、「共に生きる」という領域でとらえたい気もしてくる。

私の思考は、死者にとっては言わば“狭い部屋”のようなものなのかもしれない。なるべく深く、広く、緻密に、あるいは大胆にものを考えるようにしなくては、と思う。仏教でいわれている八正道のうち、正思惟だろうか。

わたしがどう考え、どう生きるかは、死者の“その後の経験”に関わるように思えてきた。これこそ「供養」といえるのではないだろうか。