人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

湯島天満宮で梅を聞く

湯島天神の梅

寒の戻りのような今日、湯島天神にお参りをしてきた。寒さの中の梅には、なにか特別な生命を感じる。梅は、真冬から早春にかけて咲くが、自然界のこの時期は生命力がまだ地中に沈んでいるときだ。この中で咲く梅は地上の生命ではなく、別のリズムに従っているように思われる。

これを人間の魂で言えば、孤独と試練の時期に、こころの内側で咲く花、と言えるような気がする。だから人の「内側で咲いた」花は、世俗の色ではないはずだ。紅白ではなく、きっと肌色ではないかと、想像してしまう。

梅の霊性を最も深く表す和歌はやはり、菅原道真の

「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

だろう。道真の生き方を顧みて解釈してみると、

時期は、左遷される人生という真冬。梅に問いかける。「私がいなくても春を忘れるな」という心情は、「たとえ理解者がいなくてもおまえは自分の春に咲け」という意に違いない。この場合、梅は道真自身そのものだと思う。梅の香りと春という時季と道真は、まったく同じものと解釈しなければ、この和歌の真意はわからない。

梅は自然の存在なので、もちろん左遷されたりしない。左遷という不遇性が、寒中に咲くという厳しさにたとえられる、ということに過ぎない。でも、いにしえの人たちも、現代人のように複雑な心情を梅に投影していたと思うと、平安時代がすごく身近に見えてくる。歴史を身に感じるということは、きっとこういうことなのだ。

ところで梅の香りで思い出したのだが、日本の香道で、室町期に体系化され、足利義政の文化圏で洗練されていった、「香り十徳」という理念がある。香り十徳は効能ではなく、嗅覚を通した精神修行のことだ。その五番目に「静中成友」(静けさの中で友となる)という題目があるが、孤独の中で寄り添う存在を指している。これが、梅の霊性ととても近い感じがするのだ。香りは話さないし、主張しないが、寄り添ってくれる。孤独を孤独にしない存在だ。

これは、まさに梅ではないかと思った。

大宰府へと向かう道真は、失意に満ち、孤独だったのだろうか?それとも、香りを友にして、自分の春を咲くことができたのだろうか?