
ETVでこの番組を見て、思ったことを書く。千葉県市川市にある、昭和3年に設立された障害児入所施設、八幡学園のことを描いている。市川市には数年暮らしたことがあり、興味深く視聴した。貼り絵の天才として知られる山下清が才能を開いた場所だ。
ミロ顔負けの作品群を見ているうちに湧いてきた疑問は、「障害児が驚異的な絵画の才能を示すのはなぜか?」というものだ。
神経科学の視点と人智学の視点、両方で考えてみた。
最近はよく取り上げられるようになったが、一つは「サヴァン症候群」と呼ばれるもので、知的障害や自閉スペクトラムの人の中に、絵画・音楽・記憶・計算などで突出した才能を示す人がいることが知られている。形を「意味」ではなく「線」として見たり、風景を「色の集合」として見る、とか、人の顔を「顔」ではなく「幾何学的構造」として見るなどの特徴がみられる。「左脳的な“意味づけ・整理”が弱く、右脳的な“知覚そのもの”が強くでて、その結果、芸術的・感覚的な能力が異様に研ぎ澄まされる。」というのが科学の説明だ。
人智学的な解釈はまるで違う。自我やアストラル体が、肉体にうまく“定着しきれていない” と捉える。特に脳でだ。これは欠陥というより、地上的な論理や言語、社会的思考への“結びつき”が弱い、という状態を示している。
自我が肉体に深く沈み込みきらないと、霊的・想像的イメージや原型的な形、夢や神話に近い世界への“開口部”が残りやすい、と解釈される。その結果、想像できないほど象徴的な絵を描くといったことが起こる。それを言い換えると、知的障害をもつ芸術家は、“霊界との境界が薄いまま、この世に生きている、といったところだろうか。
人智学では、このような人は、知性を封印された状態で生まれ、代わりに純粋な感覚や造形力を持つという“調整”の文脈で語られることもある。これはもちろん優劣ではなく、魂のバランスを回復するプロセス、という理解だ。
このタイプの魂は、この世での自我形成や社会的自立、苦悩を言葉にして発することが非常に困難だ。霊的には“開いている”が、地上的には“きわめて脆い”。ここに、尊さと同時に、深い保護の必要性があると思われる。
作品を見ていて、「私が見ていい領域なのか?」という思いも湧いてくる。単に面白がったり珍しがったりするのは、不遜なことのように思える。作品の奥には、心の傷を開いた部分もあるかもしれないからだ。もしあるとすれば、私は決して評価などできない。黙ってみているしかない。
貼り絵は色紙などの断片を切り離し、もう一度“意味ある配置”に結び直す。これは、魂が無意識に行っている「世界修復」の身振りともいえる。知的障害や自閉傾向のある人は、世界を“物語”としてまとめる力が弱い代わりに、バラバラの世界を、バラバラのまま“美しく配置する”という、非常に原初的な秩序感覚をもっているのではないだろうか。
貼り絵は、言葉や概念よりも、感覚と手が先に世界とつながっている魂に、とても深くフィットする表現形式なのだと思う。
また機会があったら、「ちぎる」と「貼る」について、深めてみたいと思っている。