人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

うけら神事

うけら神事

東京の上野公園にある五條天神社で、「うけらの神事」というお祭りがあり、参拝してきた。邪気や病気という鬼を払い、無病息災・厄除け・健康長寿を願う伝統的な追儺の神事だ。

この神事では、四方祓の舞に続き、鬼門に向かって蟇目矢を射り、そのあと、赤鬼青鬼に姿をかえた病鬼が乱入し、神前で方相氏と四つに構えて、最後は鎮められる。鬼たちは、斎主によって諭され、「神の国は恐ろしい」と言って退散する。最後に「鬼は外・福は内」と豆を撒いて厄を払い、福を呼び込む。

「うけら神事」は立春前後に稲荷・八幡・春日系の神社などで行われることが多いそうで、節分で追い払った“鬼”が、立春以降に再び入り込まないようにする霊的バリアをつくる“封印儀礼”とのことだ。

五條天神社のうけらの神事では、病気・疫病を象徴する鬼を追い出すことと、季節の変わり目に清浄な状態で春を迎えること、このふたつが強調されている。健康と祓いを祈念する、日本の各地でよく見かける“普通の”伝統行事ともいえる。

この祭りで、一番関心を持ったのは、鬼ではない。それを払った方相氏のほうだ。四つ目の仮面をつけた祓い役のことで、「ほうぞうし」、と読む。鉾と盾、弓矢で武装している。

方相氏のことを、“変な仮面の人”で終わらせるには、あまりに強烈で、心魂に刺さる濃い存在だ。四つ目の仮面をつけた方相氏は、「神」なのか「鬼」なのか?それともシャーマン的な存在か守護霊か?

四つの目は、東西南北の四方を睨んでおり、目に見える世界と、見えない世界の両方を見ると言われている。方相氏の相貌をそのように読むと、侵入者を止める“門番”的側面が感じられる。

一方、鬼を追い払う役なのにその姿はどこか“鬼っぽい”。これはつまり、鬼を追い払うには、鬼の力や暗さ、恐ろしさをこちら側も引き受けねばならないという意味があるのではないか。方相氏は、聖者ではなく、かといって純粋な鬼でもない、人間の中の“闇を使って闇を制御する存在”とも言える。

方相氏と摩睺羅伽像

ここですぐに思い出されるのは、怒りの表情をした四天王像とかインド神話の多眼の神たちだ。ネットで探しまくった末、四ツ目の像が一柱だけ見つかった。京都三十三間堂の摩睺羅伽像だ。インド神話由来の“蛇神・大蛇の精霊”といわれる。人間の理性と、地底の霊的衝動が結合した存在ともいわれ、インドの民間信仰では、恐ろしく災厄をもたらす不吉な存在だったが、仏教では、仏法を守護する護法善神に変わった。

方相氏は、疫病・穢れを“見抜いて追い払う”異形の守護者とみれば、鬼は、共同体の影や欲望や暴力の擬人化だ。摩睺羅伽は、地底の霊力と原初的生命衝動の象徴といえる。共通点はどれも「人間社会が抱えきれない力」を、異形として外部化した存在、ということができる。

それにしても摩睺羅伽の四つ目は、ちょっと正視にたえない。人間の意識の奥にある「自分でも見たくない衝動・感覚」が見えてしまう感じがある。見たくないが、見えてしまう。抑えたいが、感じてしまう。理性は否定するが、身体は知っている。この“二重の視力”が、四つの目の奥からこちらのほうへ突き刺さってくる感がある。

五條天神社では、うけら餅をいただいてきた。食べれば、無病息災がかなう縁起餅だそうだ。だまってありがたく、いただくことにする。祈りの言葉はこうだ。

「何かの些細な形でも人の役に立てますように。それが果たされるまでは、無病息災でお願いします」