
不忍池にある辯天堂にいったら、外国人が書いたと思われる絵馬がたくさん並んでいてちょっとびっくりした。場所がら蓮の形をしている。読んでみたくなったが、たまたまなのかスペイン語が多く無理だった。
絵馬は、開かれた祈りの装置だ。だれでも気楽に書ける。教会での祈りのように、何を信じているか、どういう言葉を使うべきかを問われない。だから彼らは、「信仰」ではなく「願望」をそのまま置いていける場所として絵馬を選んでいるのだろうと思う。
外国人が絵馬を奉納しても、何の問題もなく、いいんじゃないの、と思われるが、これを見た機会に「絵馬とは本来何だったのか」「願いを言葉にするとはどういうことか」を、もう一度問い直したくなる。自分自身の信仰感覚をふりかえる、ということだ。
私は、かつてある神社の奉納絵馬に「自分のことを願わないような人間になれますように」と書いたことがある。その時なぜ、そんな調子のいい言葉を書いたのかは、よく覚えていない。願うこと自体がエゴの表れと思っていたのか、祈る必要がないほど、世界と調和していたいという感覚だったのか。
日本人は「裸の願い」を忘れかけているような気がしないでもない。金がほしい、勝ちたい、愛されたい、認められたい、強くなりたいという、きれいごとになる前の生命の衝動だ。日本語の絵馬をみると、これらが“上品”に加工されている感じがある。「家族が健康でありますように」とか「ご迷惑をおかけしませんように」とか「無事に過ごせますように」などの表現だ。
絵馬は本来、絵を奉納するもので、願い事を言葉にして差し出すものではなかった。絵馬は、「考えた願い」ではなく、「心の奥で生きている願い」を神前に、可視化したイメージとして差し出す行為だったはずだ。
だが、誰もが絵を描けるわけではないので、現代では、言葉が中心となっている。イメージが概念に代わっていくのは、すべての領域でそのような流れになっている。ただ、その時願いを書く前に、「これは“エゴの願い”か、“魂の願い”か?」と問うのは、いいことかもしれない。
可能なら“結果”ではなく“姿勢”を書くといい。「成功しますように」よりも、「逃げずに向き合える私でありますように」のように。