
長瀞町の宝登山にロウバイを見に行った。2~3分咲きだったが、点々とした黄色の趣がいい。どの花もうつむき加減なところに妙に魅かれる。自分の内心をそこに見るからだろうか。
秩父の駅からすぐ真ん前に見えるのが、武甲山だ。若いころ、よく奥秩父や奥武蔵の山に登ったので、とても懐かしい。古くより、神がおわす山として崇められ、山頂には「武甲山御嶽神社」が鎮座している。山の自然の神代として、多くの人々の信仰の対象となってきた。

武甲山は北側の斜面が石灰岩質で、石灰岩の採掘が盛んに行われてきた。採掘により山容の変化は著しく、かつての山頂は既に失われている。この写真は無残とも見えるかもしれない。山頂にあった縄文時代から近代までにいたる信仰遺跡や巨岩群も消滅した。
武甲山産の石灰は純度が高く良質とされ、セメントの主材料に用いられる。製造されたセメントは、これまで関東大震災や戦後の都市開発にも利用され、ビルや新幹線、高速道路の建設に大いに貢献した。地元では雇用を生み、地場産業としても経済を支えたことは、確かな事実だ。
ここで、ちょっととんでもない問いが浮かんだ。
「武甲山の石灰岩をすべてセメントにしたら、50階建ての標準的な高層ビルが何本建てられるか?」というものだ。
自分では試算ができないので、AIにやらせてみた。こういうときは、計算の機械が便利だ。AIの回答をかいつまんで記す。
「武甲山の石灰岩鉱床の可採資源量は約4億トン程度。4億トンの石灰岩 は約3.5億トン分のセメント原料相当と仮定。(途中の計算は省略) 1棟当たり90,000〜180,000トンのセメントが必要なので、概算で約 2,000〜4,000棟分の 50階建てビルの材料量に相当」 とでた。もちろん、非常に大雑把な理論値だ。
もし、武甲山全部をビルにしていたら、かなりの数が建つということになる。山が一つ無くなる代わりに、50階のビルが3,000棟ほど建つ。これをどう受け止めたらいいのだろうか?嘆くべきか、歓迎すべきか?この計算自体、荒唐無稽な想像だろうか?それは遠い未来にわかるだろうと思われる。
ちなみ現在都内に建つ50階以上のビルは推定だが、15棟くらいと思われる。
ここでもう一つ、問いを立ててみた。
「自然の石灰岩がビルに変わっていくと、人間の魂はどうなるか?」という問いだ。
「山の石灰岩がビルに変わる」という物質形態の変換は、同時に人間の魂の在り方の変換も呼び起こすのではないか、という気がしたので、この問いを立ててみた。
石灰岩は、もともと太古の貝殻やサンゴなどの海の生命が堆積したものだ。それが砕かれ、焼かれ、セメントになり、ビルになる。これは、自然界の“生命性”が、人間の意志による“人工的秩序”へ転換されたと言うことができる。
これは、何十万年もかけた生成と循環の生命リズムと時間が、人間の機能的時間に圧縮されたと見ることもできる。人間の魂は、この新しい時間と空間の中で生きることを強いられている。そこに長く生きる魂は、感覚が平板化し、風・匂い・湿度・土の気配に鈍くなり、思考が機能・効率・役割に寄りやすくなる。「生きている感覚」というよりも、“用を果たしている感覚”が強くなるのではなかろうか。魂が言わば、“乾きやすく”なるのでは、という心配がわく。
同じコンクリートのビルでも、病院か学校か、住居かオフィスビルか、あるいは倉庫などでは、そこに流れる魂の気配はまったく違う。なぜだろうか?
人間の精神が、コンクリートでできた場所に一種の霊性を与えているのではないかと思う。魂は「場所の霊性」をつくり出す側にも回れる。
現代人の魂は、自然の鉱物を“外化”した都市の中で生きる代わりに、内面に自然の力を取り戻す責任を負っている、といえるかもしれない。それは、失われた自然霊性を人間の心魂の中で“受肉し直す”作業のようなものだ。
自然の石灰岩がビルに変わるとき、人間の魂は「自然に守られて生きる存在」から「自然を引き受けて生きる存在」へと移行する。その運命を生きていくしかない。ビルを山に戻すことは、できないし、しないほうがいいと思う。みずから、引き受けられるだけの成熟を人間は求められているのだと思う。今は、冷たい物質世界のただ中で、意識的に霊性を担う時代なのだから。