人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

ひとはなぜ、「きっかけ」を知りたがるのか?

個人的な経験でも、テレビの中でも、とてもよく耳にする言葉の一つが「きっかけは、何だったのですか?」という質問だ。なぜ、こうも聞きたがるのだろう?

自分の生き方に自信がないからなのか、新しい気づきを求めているのか、単に好奇心からなのか。行動を動機づける要因は、測りがたく深いものがあるように感じる。

人生や出来事は、本当はほとんどがじわじわと起きている。予兆や予感があり、前提があり、ちょっとした経験の積み重ねがあり、そして起こる。でもそれをそのままじわじわと受け取るのは、心にとってかなりきつい。だから人は「ここから変わった」、「この一瞬が始まりだった」という切れ目を探すのではないか。

別の見方をすると、「育ち」「体質」「時代」「偶然」「無意識」など、原因が無数に散らばっていると、どう考えたらいいかわからず不安になる。だから「あの一言がきっかけだった」とか「あの出来事さえなければ」と、要因を一点に集約したいと思う心のあらわれなのかもしれない。

きっかけを知ると、「次は、あの前で止まれるかもしれない」とか「次は、違う選択ができるかもしれない」と思うことができる。それがたとえ幻想でも、「きっかけ」は未来にわずかな自由を残してくれる。そんな考え方もあるかもしれない。

多くの場合、人が知りたいのはおそらく、きっかけそのものではなく、「なぜ、これが私に起きたのか、なぜ、この時だったのか」という人生の意味への入口として問われていると思うからではないか。きっかけそのものを探しすぎると、人は「本当の問い」から逃げることになるかもしれない。

きっかけには、カルマ的な要素があるとは思うが、それは「原因」ではなく、「出会いの配置」といったもののように感じる。ある言葉、ある人との出会い、ある失敗や病、ある本を読んだこと、ある音楽を聴いたこと、それは、起こるべくして起きたことともいえる。

人智学では、「カルマは必ず人間の自由を侵さない形で現れる」という認識を持っている。だから何事も、当事者にとっては「そう読むこともできる」という形で差し出される。表面的には、軽く、偶然の顔をした出来事として現れる。だから、「きっかけ」という言葉が使われる。

同じ言葉を聞いても、何も感じず何も起きない人と人生が劇的にひっくり返る人がいる。これは「出来事」が、カルマなのではなく、その出来事に触れたときの内的応答が、カルマの扉を開くかどうかを決めるからだ。つまり、ある言葉を聞くというきっかけは外側にあるが、カルマは内側で作動する。

だから、きっかけは「試験」ともいえる。習慣で反応するか、それとも、目覚めた意志で応答するかという試験だ。同じカルマでも、眠ったまま通過することもできるし意識化して変容させることもできる。

これは私に託された問いだ、と受け取れたとき、きっかけは束縛ではなく、これからの道の入口になる。

きっかけは、何気ない一言や読み流した一行、聞き逃しそうな音や取るに足らない失敗などの形でやってくることが多い。それらを忘れて生きてもいいし、うっすら思い出してもいいし、意識的に引き受け直してもいい。

ここまで書いてきて、多くの詩人が残している言葉を、今ふっと思い出した。「耳を澄ます」という言葉だ。「きっかけ」は、いつでもどこでも目の前にころがっている。私は、耳を澄まし目をみはることができるだろうか?