赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく
この曲を知っている人は少なくなったかもしれない。1970年にリリースされた藤圭子の代表曲だ。表向きには、「夜のネオンや飛ぶ蝶などの象徴を通して、華やかさの裏にある嘘や孤独、過去の恋や人生の暗さを歌っている」と言われる。ちなみに藤圭子は宇多田ヒカルの母親だ。
私の恩師の高橋巖先生がとても好きだった曲なのだが、いま気になっていることは、「藤圭子自身はこの歌をどう思っていたか?」ということだ。
もちろん答えはないので、想像になるが、歌詞の「人生暗かった」というような内容は藤圭子自身の実体験とは一致していなかったような気がする。イメージ先行の「怨歌歌手」として扱われることに距離感を持っていた、というような取材記事もあったように思う。
それとは関係なく、やはり歌の真実味は変わらない。嘘と苦しみと悲しみに満ちているこの世で生きることを肯定しているように感じさせるからだ。
もう一つ、問いができた。「なぜ今の私たちに、彼女の歌がまだ必要なのか?」という問いだ。
藤圭子の歌は、夜の闇や孤独、ため息、嘆き、恋の移ろいを非常に生々しく描く。これはまさしく、誰もが心の奥で知っている「人生の影の部分」の表現といえる。現代人は、感情を常に「外向き」に見せることを強いられ、いつも“外交的な”仮面をかぶって生きている。藤圭子の歌は自分の影に名前を与え、声にしてくれる役割を果たしているような気がする。
藤圭子の歌声は、震えながらすこし掠れている。それが、魂の振動というか、強さと弱さの両方を同時に含んでいるように聞こえ、言葉の意味を超えて、聞く者の内面を振動させる。だから、自分の孤独や影を確認したいという心にも響く。その闇を一緒に抱えてくれる稀有な存在が、藤圭子の歌声で表されるこの曲だ。
この曲は、まるで「霊的な真実や魂の記憶は、社会的な昼の顔が沈んだときに現れる」と言っているようだ。「夜」は恐怖でもあるが、同時に本当の自分が顔を出す時間でもある。
この歌の夢はキラキラした未来の夢ではなく、悲しみ・孤独・裏切り・報われなさを含んだ夢だろう。つまりこれは「この魂は、苦しみを知る役目を持って生まれてきた」という霊的自己認識にも読める。因縁やカルマにもつながりそうだが、人智学的蛇足はやめておく。
禅の世界で、「向下道」という言葉があるが、煩悩・欲・苦・闇を否定せず、そこに降りていくことで真実に触れる道のことをさす。汚れのただ中で目を開く道でもある。逃げない代わりに、救済も保証されない。
この歌は、「向下道」の歌といっていい。この歌は、不幸を克服せず、希望へと反転しない。闇をそのまま生き切る構造になっている。歌中の女は、だまされると知っているし、幸せにならないと知っているが、それでも夜の世界へ行く。そして、決して嘆かない。禅の高僧にも達しえない境地だ。
「闇を引き受けること」は、地上でもっとも深い生き方の一つになりうる。「いま私は闇の中にいる」と知っている目があれば、闇は伝わる言葉になり、祈りになり、智慧に変わる。
この歌をぜひ、全部聞いていただきたいと思います。