
整体師から「体操ブーブー」というものを教わり、さっそく購入してみた。鼻を押すと、ラジオ体操第一の掛け声が音楽とともに流れてくる。小学校以来になる懐かしい体操をやってみると、なんだか、全身にさわやかな力が流れてくる。半世紀ぶりの感触だ。
半世紀もたつと、この、決まった動きの“型”に、何か意味深いものがあるのではないかと、どうしても頭で考えてしまう。子供のころの無邪気さから遠くなってしまい、小賢しい知恵ばかりになってしまいそうだが、今は、この思考の行方をたどってみるしかない。
型と儀礼を考えてみると、「型があるから迷わず動けるし、儀礼があるから意味を自分勝手に思い込まずに済む」という特性に目が行く。つまり、思考はいったん休みに入るわけだ。そうすれば、自由な何かが戻ってくる。
日本の伝統である、武道の構えや、能のすり足、歌舞伎の見得、日本舞踊の留め、神道の拍手と礼、などの型と儀礼に共通していることは、「頭で考えない」という点だ。モダンダンスや全てのスポーツにも同じことが言える。
型の本質とは、「意味のある動き」ではなく、「意味を問われない動き」といえる。意味を問われないから、判断と解釈、好き嫌いをすっ飛ばして、意志そのものに作用する。武道とか能や茶道で、「考えた瞬間に負ける、または崩れる」と言われるのはこのためだ。

ラジオ体操は一見すると近代的で合理的なもののように思えるが、構造は非常に儀礼的だ。一つには、説明がない。なぜこの順でなぜこの動きか、なぜ音楽があるかなどだ。そして、動きが頭から腕、胴から足へと全身を必ず通過する。この体操は、意志が身体全体を巡る「通路」を作るのだ。そのうえラジオ体操は、うまい下手が問われず、表現しなくていい。これは自我が前に出ないことを意味し、まさに宗教儀礼と同じ構造だ。
ラジオ体操は特別に「よくできている」と言いたくなる。自我は身体に静かに宿り、生命体は安定し、感情は鎮まりすぎも暴れすぎもしない。鏡を見て自分を評価する必要もなければ、音楽に溺れすぎることもない。呼吸についてもコントロールしすぎず、ごく自然だ。うまくやろうという意識は生まれず、短時間で終わる。競技とは無縁の世界だ。
ラジオ体操を動作ごとに、霊学的に象徴として読んでみた。
「伸び」の運動は、「私は今日も、この身体を使って生きる」という意志表明におもえる。
「腕を振って脚を曲げ伸ばし」は、同時に動かすことで、思考が地に足を持つ、とでもいうのか、頭でっかちにならなくて済む。
「腕を回す肩回し」は、感情的疲労や他者の影響が溜まる場所を円運動によって、よく循環させる。怒り・焦りなどの緊張や固着した感情を流れるようにする。
「腕を横に振る胸を開く運動」は、胸郭を開閉することで呼吸の自由を回復させる。
「体を横に曲げる運動」は、人間が、理性か感情、能動か受動など両極に偏りすぎないようにする。
「体を前後に曲げる運動」は、過去に縛られず未来に突っ走らず「今ここ」に自我を戻す働きを持つ。
「体をねじる運動」はき、内臓領域、意志の深層を刺激する。
「腕を上下に伸ばす運動」はき、天と地のあいだに身体を置くことで、人間を「道具」ではなく「橋」に戻す。
ラジオ体操の元型になっている精神の形は 「人間を中心に、宇宙的力が上下・左右・前後から均衡をとって流れ込む、十字的・放射的秩序」といえる。全身をくまなく規則的に力が通過する。
「伸びる、かがむ、背伸び」は、天と地の上下軸で、天と物質界を結ぶ人間の垂直性の象徴だ。「腕を開く、体をひねる、左右対称の動き」は、拡散と収束の左右軸で、感情と生命の流れを均衡させる軸といえる。「前屈背屈」の前後軸は未来へ向かう意志と、過去を背負う記憶の軸となる。三軸が合わさると人間を中心とした空間十字になる。
ラジオ体操は、ほぼタダでできる。効果は宇宙的だ。こんなコスパがほかにあるだろうか?伝統芸能も武道もスポーツもこれには及ばない。人の積極的な運動に関して頂点に君臨している。