人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

“帰っていい場所があらわれる日”…年に二回のチャンス

『のんのんばあとオレ』 水木しげる 講談社

今の自分からいったん離れて、何も産まず果たさず、自分が“どこから来た存在か”を思い出す日があるという。その日は、役割が解かれる日であり、肩書が消える日。元の自分に戻っていい日とも。

こんなことをやってみるとどう感じるだろうか?

スマホを数時間だけ手放し、目的を決めずに歩く。「懐かしい匂い」の場所に行く。あるいは、子どもの頃に好きだったことをやってみる。いつもの自分と何かが違ってくるかどうか…。

こんな時、一時的だが、こんな問いが生まれる。「自分が“戻れる場所”ってどこだろう?」、とか、「役割を失ったとき、自分には何が残る?」というものだ。

日本の社会は、一年でたった二日だけ、「自分に戻れる」特別な日を認めた。ひとつはお盆が終わる頃の7月16日で、もう一つは正月16日の藪入りだ。江戸時代、奉公人や嫁いだ女性が実家に帰ることを許された日として始まったという。精霊や年神が戻っていったあと、人もまた元の場に戻る日をもうけた。人は役割だけで生きてはいけないということを、社会が知っていたのだろうと思われる。これは、「労働から休暇へ」でもなく、消費のための帰省でもない。人間の精神を守るための高度な社会設計といえる。

藪入りの心のポイントは、「自分の原点に帰り、そこにある何かに触れる」ことだと思う。観光や温泉、昭和レトロや懐メロ。義務的な帰省。フェスやライブやイベントへの参加。これらは確かに、いっとき自分を忘れさせてくれるし、文化として大変価値あるものだ。しかし、自分が「出てきた」場所か、という観点で見るかぎり、帰還を与えないまま解放だけを売る装置に変わってしまうような気がする。

藪は、家でもなく野でもなく道でもない。かと言って完全な自然でもない。藪とは、人間の秩序が弱まり、しかし完全には消えていない場所といえる。そこでは、境界は曖昧で見通しがきかず、音や気配が先に来る。

そうだ、これは水木しげる先生の世界だ、と思い至った。評価も時間もなく、自分本来の名前が戻ってくる世界、「試験も何にもない」世界だ。

藪には、「迷う、戻れなくなる、正体を失う」という恐れがあるが、同時に、「休まる、懐かしい、泣きたくなる」ということも起きる。生きたまま、一歩だけ原点に戻れる世界、それが藪入りと言えそうだ。

水木妖怪の特徴は、「天国にも地獄にもいない。明確な彼岸に属していない。善悪で裁かれない。」という点だ。彼らが棲んでいるのは、完全な異界ではなく、この世のすぐ脇にある場所。それがまさに、藪だ。

水木先生の人生そのものが、「繰り返しの藪入り」と言える。戦争で極限まで「外」に出され、片腕を失い、社会の役割から一度切断され、そこから、南方の精霊信仰、日本の妖怪、怠けることの肯定へと戻ってくる。

その原点が『のんのんばあとオレ』のような気がしてならない。のんのんばあは、不思議な存在を教えないし、説明もしないし正そうともしない。ただ、藪の話を、藪のまま語る存在だ。のんのんばあは、ただ、「そういうもんだがなあ」と語る。

休めない人や戻れない人が、無意識に水木作品を求めるのは、藪入りを探しているからではなかろうか。自然に生きている子どもだけがわかる世界だ。

藪からは、行きっぱなしではなく、“いちにのさん”で帰ってくる必要がある。明日からは、この世のつらい(?)通常業務に戻らなければならない。次は半年後だ。