
朝からお酒を飲めて、もう二週間たつが、その気分が抜けきれない。
今日は、暦では‘小正月’と言われているが、聞いたこともない方がきっと多いと思われる。
‘大正月’である三が日は、年神様を迎えるために、正月飾りを整え、おせちを食べ、鏡餅を供えた。小正月は、生活と習慣を立て直すために、「終わらせる」正月と言われている。そのために、どんど焼きで年神様には帰っていただくし、気分の高揚を鎮めるために、小豆粥をいただく。これが小正月の二大行事だ。
年神様をいつまでも“迎えっぱなし”にせず、今日からは自分で生き方を引き受ける、という日だ。どんど焼きはただ火を燃やすことではなく、正月飾りという天界からの力を、正しく返す儀式といえる。
小正月はまた、天から降りてきた秩序を、地上の暮らしに溶かし込む行事でもある。鏡開きのお汁粉が「神聖な甘味による魂の補給」だとすれば、小正月の小豆粥は「身体をこの世に戻す食事」だ。
「いつまでも正月気分」を引きずると、人は現実から浮き、判断力を失う。「終わり」が必要なのだ。本来の良い「終わり」とは、起きたことを“在ったものとして確定させる”行為だ。終わらせない限り、それは未確定のまま漂い、心にも身体にも残留する。
終わりがないところには、時間はスムーズに流れない。始めっぱなしの関係とか、終わらない怒り、閉じない物語。これらはすべて魂を「永遠の現在」に縛りつける。終わらせられない人は、常に何かに“起こされて”生きている、といえないだろうか。
‘終わらないこと’が続いている限り、「いつか分かり合えるかもしれない」、「本当はうまくいったかもしれない」、「自分はまだ別の人間になれたかもしれない」という幻想がつきまとう。
現代社会は、《成長は止まらない、改善は永続する、関係は更新可能、人生はやり直せる》という一種の明るさのようなものに満ちている。しかし、それは幻影と表裏一体のような気がする。
積極的な終わりとは、「意味を見届ける、手放す、次を引き受ける」といったことを含んでいる。何を学んだか、自分のどこが変わったか、何ができるようになったか、を認識できたら、次はどう生きるか、何を引き受けるか、という始まりが待っている。「次」は同じ道で構わないし、いつもの仕事をすることでいい。特別な意味づけをしなくてもいいのだ。
小正月後に始まるのは、「私は何をしたいか」ではなく、「何が私を呼んでいるのか」なのかもしれない。放置できなくなったこと、気になる小さな用事でいいのだ。
帰路が始まっていれば、往路がしっかり終わっていたことの証明になる。