キリスト教では、今日1月6日を公現祭または顕現祭と呼んでいる。興味のある方に少し説明をさせていただく。
公現祭は、エピファニーという。冬至後しばらく経った1月6日、外的な光はまだ弱いが、内的な光が「方向性」を持ち始める日だ。この時期、西洋では星、光、 導き、認識が強調される。一般には、東方の三博士がベツレヘムに誕生したキリストを訪れた記念日とされている。
エピファニーで行われる行事や儀式は、「見えないものが“認識可能な秩序”として現れる」という一点に集約される。三博士の礼拝の朗読や劇が行われ、ヨルダン川の洗礼を再現する様々な“水に関わる”儀式もある。家の玄関には、「キリストがこの家を祝福するように」という文字が書かれる。日本の門松のようなものだ。また、星形のランタンを持って歩いたりもする。
この日、何が“公現”したのか?という点でまとめてみよう。
霊学の解釈では、隠されていた神的本質が、可視的・認識可能なかたちで顕れ出ることを意味する。キリスト教暦では主に三つの出来事が重ねられる。東方の三博士の礼拝、ヨルダン川での洗礼、カナの婚礼の奇跡だ。これらに共通する霊的本質は「霊的存在が、人間の認識能力そのものに到達した」という点にある。見えなかったものが、見えるようになった、ということだ。これは「神は天にいる」という意識から、「神は人間の中に宿る」という意識への転換といっていい。
ヨルダン川の洗礼は、ナザレのイエスの身体に太陽霊としてのキリストが初めて完全に結合した瞬間で、人智学では「キリスト衝動の地上降臨」などと言われる。エピファニーとは、キリストが「歴史の対象」になる前に、すでに「人間意識の構造を変えた瞬間」をさしている。これは、「神が“信じる対象”であることをやめ、人間の認識そのものの内部原理として立ち現れた出来事」ともいえる。
公現祭とは、「キリスト存在が、特定の民族宗教の枠を超えて、人類全体の霊的存在として顕現した日」というのが、人智学的な認識となっている。キリストは、キリスト教の神ではないのだ。
現代においては、三賢者が星を読んだように、人間は“自己の内的な星”を読むことが求められる。外的な星はもはや決定的ではなく、「キリスト衝動を思考の中で自由に生かす」ことが、課題となっている。
公現祭とは、“この世界の中心にある意味が、目に見える出来事として現れた”ことを祝う日だ。ただ生きているだけに見える世界に、“貫いている意志”や“方向”が初めてはっきり見えた瞬間を祝う日、といってもいい。万有引力が“発見”された日があるとすれば、公現祭は“この世界にも霊的な重力がある”と気づいた日である、ともいえる。
意味は、気づいた瞬間に消えてしまいやすい。だから人類は、それを“毎年思い出す装置”として祝日にした。今日は、キリスト者にとっては祝日なのだ。