人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

獅子とおかめとひょっとこの顔について

獅子 お多福 ひょっとこ

デパートで獅子舞をやっていた。伝統芸能を客寄せに使っているのだが、獅子舞自体は素晴らしい。なぜ、お正月にふさわしく感じられるのだろうか?

縁起物や民俗芸能という視点を超えて、獅子の相貌そのものが何を意味しているのかを読んでみた。

獅子舞の獅子は、ライオンでも神獣でも怖い動物でもない。霊的には、人間の内側にある“荒々しい生命衝動”そのものの顔のように感じる。だから人が獣を“仮面として被る”構造になっている。

獅子舞の顔を見ると、大きく見開いた目は何も凝視していない。焦点も定まってない。これは「判断する目」ではなく、世界を丸ごと呑み込む目のようだ。恐怖も善悪も区別してはいない。

獅子の顔は人間的にみると明らかに不自然だ。これはもちろん写実ではなく、力の方向を誇張して可視化した相貌といえる。眉は意志、鼻は呼吸なので生命力、顎は地への定着といえるだろうか。

獅子は、怒っているわけではないので、嫌ではなく、安心を生む。子どもを噛むし、大人を脅すし、場を荒らす。でも誰も傷つかない。これは「相貌感覚」からきている。理由は分からないが目が離せない。獅子舞の獅子の相貌とは、人間が、自分の中の“野生”と安全に再会するための顔、とでも言えるのではないだろうか。

それでは、お多福やひょっとこは、どうなのだろうか?

お多福は、いわば「安心して崩れていい顔」だ。ふくらんだ頬、細く下がった目、締まりのない口元。これは、自我が力を抜いたときの人間の特徴をよく表している。失敗してもいい、賢くなくていい、正しくなくていい、という状態を、まるで顔が許しているようだ。

お正月には、社会的役割が一時停止する。お多福の相貌は、「役割を脱いでも、人は人だ」というメッセージを、言葉なしで伝えている。あるいは、役割を離れた時に、「人の本性のある側面」を現す、ともいえる。

ひょっとこは、「失敗を笑いに変える顔」とでもいうのだろうか。歪んだ口、片寄った目、不均衡な表情。明らかに「変」だ。まるで、人間の“不器用さ”や“間の悪さ”、“ズレ”を見せてくれているようだ。

現代社会では、安心は制度で代替され、失敗は削除される。そのため、顔が引き受けていた機能が、消えてしまったような気がする。

お多福とひょっとこは、「大丈夫、力を抜いていい」、「ズレてもまだ踊れる」というメッセージを顔だけで伝えていた。こういう文化が、日本には確かにあったことを思い出させてくれる。

イコちゃん

今個人的に、最も気に入っている顔を紹介する。イコちゃんだ。なぜ好きなのかは、わからない。このブログ記事のような理念的な説明をしてしまうと、自分の好みが崩れてきそうな気がする。だから、だまって鑑賞することにする。