人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

安い鏡餅に神様は宿ってくれるか?

鏡餅と神様

鏡餅は、なぜ「鏡」というのか、気になって調べてみた。神社ではよく鏡がご神体となっているが、何か関係があるのだろうか?

鏡は神そのものの依代だと言われるが、鏡はありのままを曇りなく現す。参拝すると、社殿の奥に自分が写っているのが見える。これはどう解釈すればいいのだろうか。「自分は神なのか?」というとんでもない疑問が生まれる。

餅は米を蒸し、搗き、粒を失わせて一体化させたものだ。米は生命・霊力をもち、搗くことは個を壊し共同体に溶かす意味がある。餅は、その霊力が最大密度になった物質といえる。古代感覚では、餅は「まだ人間の食べ物になる前の、神の食べ物」だったようだ。

鏡餅を作ることは、神の場を食べ物という物質の中に一時的に作る行為だと言われる。上の餅は天と霊を、下の餅は地と人を表しており、これを重ねることによって、新年において天と地が再び正しく結ばれるという宇宙更新の象徴になっている。

また、餅は完全に近い円で、始まりも終わりもなく、切れ目もない。これは仏教的には「空」、神道的には「むすび」をあらわす。人間の持つ“四角い”理性ではなく、生命という丸いものを供えるわけだ。

それでは、上に載っている橙はどういう意味なのか。橙は、実が落ちにくく何代も同じ枝に実をつける。一説によると、「落ちずに新旧が共存する」意味を持ち、生者と死者、過去と未来、祖先と子孫が同時に生きているという感覚の象徴だそうだ。日本人の時間感覚は直線ではなく、層として重なる。それを目に見えるようにしてくれている。

鏡餅は、神に供え、神が宿り、その後、人が食べるという流れがあるので、意味を持つ。神を外に祀るのではなく、最終的に身体に迎え入れることがポイントだ。本当の鏡は食べられない。

毎年、スーパーで売っている、価格の安い鏡餅を祭っているのだが、去年までは橙はプラスチック製の丸いものが載っていた。今年買ってきたものをよく見たら、橙は厚紙に印刷された一枚のものだった…。

この厚紙にも年神様は宿ってくれるだろうか?