人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

お節の中の宇宙

今年はちょっと奮発して四段重でお節をいただいている。子どものころは、母が全部手作りしてくれていたが、今はほとんど出来合いのもので済ませている。ただ、昔の思い出が強いせいか、酢ゴボウだけは自分で作っており、毎年いつもうまくできたのだが、今年は煮ている最中、パソコンに集中してしまった結果、真っ黒に焦がしてしまった。ゴボウは全部炭になり、女房に叱られる新年のスタートとなった…。

お節料理について色々と思ったので、書くことにする。おせち料理をどのように感じているかという、あるアンケートをみると、意外にも、10代〜若年層の調査では、「お正月のおせち料理は伝統的な和食派」という回答が約7割にのぼっているそうだ。約3割の洋食派は、その多くが和食への苦手意識を理由に挙げている。

別の調査では、40%以上が「おせちを食べない」と回答しており、若年層でのおせち離れが指摘されていた。理由としては「昔から食べる習慣がない」「味が好みでない」の声が挙がっている。

“おせち観”の変化を日本的霊性の視点でみるとどうなるだろうか?

おせち料理は「料理」ではあるのだが、別の“装置”でもある。一年の時間を「閉じ、再び開く」ための境界儀礼であり、個人の欲望を止め、祖先・共同体・宇宙リズムへ魂を接続する媒体という装置だ。食べることで意味を身体に刻印する象徴体系ともいえる。

私もそうだが、大人が「なぜお節が霊的に必要だったのか」を説明できないことや、それを言葉・沈黙・場として渡せないこと、これが若者のお節離れの一因のような気がする。問われているのは若者ではなく、大人の霊的成熟のように思う。

お正月は、本来、年神が来訪し、一年の生命力が更新される時間だ。お節料理はこの境界で火を使わず、日常の調理労働を止め、「変化」をいったん凍結することで、古い年を完全に閉じ、新しい年を迎える“静止した食”として機能していた。お節は本来、年神に供え、そのお下がりを人がいただく、という構造をもっている。つまり、神と同じものを食べることで、生命力を分けてもらう、という行為だ。

重箱に料理を詰めることもひとつの象徴となっている。バラバラのものを、仕切りの中に、美しく収める。これは、混沌が秩序へ変わる舞台のようなものだ。箱を「重ねる」ことは時間の連続や子孫繁栄、生命の層構造を象徴している。

ところで、お節に「甘い味」が多いのはなぜなのだろうか?

砂糖やみりんは保存性を高める、冬にはカロリーが必要、子どもでも食べやすい、という説明もできるが、甘味は、霊的には「受容、和解、下降」といわれる。お正月は目標を立て、意志を奮い立たせる時間では本来ない。むしろ 「もう争わない」時間と言った方がふさわしい。甘さは世界に対して歯を立てない味といえ、「祝福の感覚」に最も近い。舌で行われる祈りのようなものかもしれない。

お節の甘さとは、一年の最初に「世界は本当は敵ではない」と身体に教える味と言えそうな気がする。