人には、108の煩悩があるという。これは、多くの執着があるというよりも、今までの人生で身につけた、様々なものへの多様な“結びつき”の数といえるかもしれない。結びつきなのだから、決して悪い物、消すべきものではない。
“結びつき”をほどいて言うと、それは、外の世界に対して抱いたすべての感覚、好き嫌いなどの感情、そして何かを判断して一定の観念をつくった思考、これらが結晶化した“わたくしのくせ”の集合体と言える。それが108もある、というのだが、この数はどういう根拠から来ているのだろうか?
仏教思想でよく言われる考え方を、「掛け算」してみると108になる、という見方があるのでご紹介したい。
感覚が六つ、心の反応が三つ、時間が三つ、受け止め方が二つ。これを全部掛け合わせると、百八つだ。
まず、“感覚”は、仏教でいう「六根」のことで、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ。迷いを起こさせるもととなると言われる。人が世界と接する入口だ。般若心経では、これを「無くした」「空」の世界を描き、心魂上こだわりをなくすことを説いている。しかし、地上で生きていくには必要な機能だ。
次の三つの“反応”は、仏教では「楽受・苦受・不苦不楽受」と言われる。好き・嫌い・無関心の三つのことだ。現代では、無関心・嫌い・好き、の順に多いのではなかろうか。ものごとを客観的に見るのは、本当に難しい。
“時間”の三つは、縁起・業の思想からきており、過去・現在・未来のことである。
最後の“受け止め方というのは、物事や人を、透明に素直に受け取るか、自我で歪めて受け取るか、という違いだ。たいていは、自分が持っている何らかのフィルターを通して受け取っている。
自我があくまで、「私はこう感じた、こう思った、こう理解した」等々という言い方で表わせるような、一種思い込んだ全パターンが108だった、ともいえる。
百八つのうち、一つだけ例示をしてみよう。
「虫の好かない人に出会い、自分と違う考えを聞いて、嫌いだと思った。その感情はいつまでも続いている。」ことだけではなく、「とてもウマが合う人と出会って、意気投合し、好きになった。生涯の友となると思う。」ということも、“結びつき”のひとつだ。煩悩とは言えないことがわかる。
一説に除夜の鐘の音は、「数を身体に通し、自我の手前でほどく」ための装置と言われる。108は、理解すべき数でもなく、克服すべき項目リストでもない。鐘は、人間が人間である限り、「これくらい引っかかってもいい」と言っているような気がする。108とは、人間存在への深い許しの数のようにも聞ける。嫌いな人間がいても好きな人間がいてもいいのだ。
鐘の音は、鳴った瞬間よりも消えていく過程に本質があるのではないか。除夜の鐘は、拝まなくていいし、信じなくていいし、何かを誓わなくていい。108回という反復は、自我が疲れて手を離すまでの“必要十分な回数”といったら読みすぎだろうか?一年に一度、人間の魂が「時間・欲望・自我の癖」からいったん自由になるための集団的儀式、それが除夜の鐘という形に現れている。
「ゆつくりと息を吐ききる年の夜」という句があったが、「今年の自分」をいったん死なせ、「来年の自分」をまだ名付けないまま迎えるという通過儀礼を感じさせる句のようにも読める。一方、鐘の音は、「終わった」と感じる前に、「まだ鳴っている」と感じるところもある。この「終わらない感じ」があるのも確かだ。この感覚は不思議だ。鐘は、無常を受け止める器なのだろうか。
新年になった。
あけましておめでとうございます。
素直に挨拶だけしていればいいのだが、少し解釈をしてみたい。
「あけまして」のところ、何があけるのだろうか?もちろん年が明けたのだが、あけるものは、門、境目、内側などがある。まだ、未来は見えないが入り口は開いている、という感覚だろうか。
なにも保証されていないのに世界は相変わらず存在し、再び始まる、だから「めでたい」と言えるのかもしれない。これからどんな世界がスタートするのか、それはまだ白紙だ。だが、生命力や魂が更新されることに同調しよう、という気持ちが、新年を「迎える」という言い方の中にあるような気がする。