一年ももうすぐ終わりとなるが、“出会い”の視点で自分の今年を読んでみようと思う。
出会いを精神科学的にとらえると、次のような問いが立てられる。
1 今年、私の前に現れた特徴的な出来事と人は?
2 それは私にどんな力を授けようとしていたか?
3 私はその力を受け取れただろうか?
4 次の年の課題として、どんな出来事と人が求めうるか?
個人的な話となってしまうが、今年の手帳をひっくり返しながら、立てた問いに自ら答えてみようと思う。
外面的には、多くの専門家と出会った。園芸学者、人類学者、ニーチェ学者、キリスト者の司祭、神話学者、気功師、双六研究者、哲学者、仏教学者、美術史家の各一名、計十名とお話をさせていただいた。特にインパクトと深い縁のようなものを感じた二人について、述べてみる。
ひとりは、人類学者で、古代の遺物を「人間の認識の範囲を拡大すると」、という視点でとらえてきた方だ。古代人は、現代人が見ることのできなくなった一種の(霊的な)視力を持っていた、という仮説を持っておられた。大学のアカデミズムでは扱わない多くのユニークな考えを持っていたのに、大変刺激を受けた。星の王子様的に言うと、「大切なものは目に見えない」ということになる。人間の認識力は拡大することができ、そうすれば、今まで存在していないと思っていたものが、わかるようになる、という考え方は、人智学と全く共通する。自分と同じ考え方をする人に出会った一種の喜びがあった。これはとても珍しいことだ。認識論の研究をしてきてよかったと思うとともに、引き続き勉強をしていこうという気になった。なお、このような学者は、日本に何人かいらっしゃったが、亡くなられた方が多い。生きていてもほとんどが高齢だ。今年出会えたこの人類学者は、まだ若く、これからがとても楽しみだ。
もう一人は、美術史家で、おもに中央アジア・シルクロードの遺跡から出る美術品を研究されている。シルクロードの遺品をテーマにした講座で出会い、お話をさせていただいたのだが、この先生もまた、お堅いアカデミズムからちょっと距離を置いた柔らかい発想をされる。その発想は、美術品が表現しているものの「象徴的な意味」を解釈するときに、独自ものとなっているような気がする。一種の精神的図像学だ。これは「古代人は、本当は何を見ていたのか?」という問いとつながる。物質ではないドラゴンは、本当に「いた」のかもしれない。この先生の視点も、認識の範囲を広げる、という点で、人類学の先生とつながるものがある。私がそのような傾向の先生を求めていたのは確かだが、全然違う分野で、このようなお二人と出会えたことは、何かの導きなのかもしれない。
ところで、「終わり良ければ総て良し」という格言を人智学の視点で解釈するとどうなるだろうか?
“終わり”は単なる時間的な最後のことではない。それは、プロセス全体を統合し、意義を抽出し、自我がそれを未来の力として持ち帰る「収穫」の局面を意味する。つまり、高次または来年への移行点といえる。
それでは、“良し”とはなんだろうか?「良し」とは経験を自我が自由に受け取って、そこから意味や方向や次のステップを生み出した状態、つまり魂が「未来を創造できる力」を再び見つけた、と言えることのように思える。道徳的な判断では全然ない。
「終わり良ければ総て良し」とは、プロセスの途中が混乱していても、苦悩していても、最後に意味が少しでも見いだせるなら、霊的には“成功”である、という風に言える。人生全体は、ひとつの意味あるストーリーなのだ。老いや病も、人生の終盤にその意味がやっとわかる。
来年は、何を拡大しようか?と今、思案中である。