日本海側では大雪のようで、「たいへんだ!たいへんだ!」のような声が聞かれる。そのような声は、大人のもので、言わば「社会的な雪」としてのものだ。
子どもは、なぜ雪遊びが好きなのだろうか?雪に向かって駆ける子どもの姿には、人間の本質がよく表れているような気がする。
あたりまえだが、雪は白くて明るく、触ると冷たい。踏むとキュッと音がする。また、形を自由に変えられる。子どもにとって雪は、視覚も触覚も聴覚も全部を働かせることができる素材だ。しかも、壊しても怒られない。
子どもの魂の状態と雪の性質は、とてもよく似ているように思われる。子どもの魂は、まだ固まっていないし、境界が柔らかく、世界と直接触れている。雪は、水でもなく氷でもなく、生まれてすぐ消える。子どもは、雪の中に「自分と同じ状態」を感じ取っているのではないだろうか。
子どもは、考える前に触り、触って感じ、後から分かる、というごく自然な順序で意志や感情や思考を働かせている。雪は、子どもの自然な内面のリズムをそのまま受け止めてくれる。思考が強く働きすぎ、感情を抑え、意志も社会に合わせて制限している大人には似合わない。大人は雪を見ると、「寒い、危ない、滑る、遅れる、支障が出る、損失だ」と考える。あるいはそれを、「風情、観光資源」として見る。
子どもが雪を好きなのはきっと、雪が「何かを教えよう」としないからだ。雪は、触っても、壊しても、名前をつけなくても、ただ一緒にいられる。
都会でも春先に雪が降ることがあるが、その時の感じを思い出してみると、雪の日は音が消えた感じがする。車の音も、人の声も、なぜか遠くなる。まるで世界が、少しだけ黙るような。自然が人間に強制的に与える「間」、それが雪のような気がする。
若いころは、上越線や信越線に乗ってよくスキーに行ったが、トンネルを抜けてあたり一面が雪景色になると、なんだか独特な印象を抱いた。心が静かに、透明になるような感じだ。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という表現は、文字上は単なる散文的な記録のようにみえるが、その文の裏には深い心情がある。雪には、世界を白く覆うことで、人の心を「いちばん深い場所」に戻す自然の働きがあるのだろうと思う。雪がしんしんと降る時間は、人が自分の内側を聞く時間に違いない。
以前、新聞に谷川俊太郎さんの『雪ノ朝』という詩が載っていた。
「雪ノ朝/大人ハ子ドモニナレルンダ」で始まるこの詩の最後の方で、
「大人ニカクレタ子ドモガ顔出ス」という一行を書いていた。
やはり雪は、大人を子供に戻してくれる不思議な力があるようだ。
雪下ろしで苦労している方々に申し訳ないので、この辺でやめておく。