人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

映画のクリスマス・キャロルについて

ディケンズの文学作品、『クリスマス・キャロル』は、何回も映画になっている。この作品の思想は人智学や仏教の死後観となぜかとてもよく似ている。キリスト教にあまり親しくない日本で一定の人気があるのも不思議だ。
あらすじはこうだ。

≪主人公のスクルージは、冷酷で強欲な老人で、貧しい人にも、家族にも、クリスマスにも一切関心を持たず、金勘定だけを信じて生きている。クリスマス・イブの夜、亡くなったかつての共同経営者マーレイの亡霊が現れる。マーレイは、生前の利己的な生き方のために、死後も重い鎖に縛られて苦しんでいると語り、スクルージに警告する。「このままでは、お前も同じ運命をたどる」そして、これから三人の精霊が訪れると告げて消える。

最初に現れた過去のクリスマスの精霊は、スクルージを自分の過去へ連れていく。孤独だった子ども時代、希望に満ちていた若い頃、かつて愛した女性との別れ。スクルージは、自分がどのようにして冷たい人間になったのかを、初めて真正面から見せられる。

次に現れた現在のクリスマスの精霊は、今この瞬間のロンドンの人々の暮らしを見せる。貧しくとも温かい家族、楽しげな食卓、病弱だが心優しい少年ティムの姿。スクルージは、自分が関わらなかった人々の人生の中に、喜びと苦しみが同時に存在していることを知る。

最後に現れた未来のクリスマスの精霊は、言葉を発さず、暗く不気味な未来を示す。そこでは、スクルージの死は誰にも惜しまれず、彼の財産は奪われ、墓は荒れ果てている。スクルージは、自分の生き方が変わらなければ、この未来が避けられないことを悟る。

恐怖と後悔の中で、スクルージは必死に懇願する。「まだ間に合うなら、人生を変えたい」。目を覚ますと、彼は再びクリスマスの朝を迎えていた。スクルージの心は変わっていた。貧しい人々に惜しみなく与え、家族や隣人と喜びを分かち合い、少年ティムの良き支え手となる。≫

この物語を解説すること自体むなしいことのように思えるが、あまりに人智学の死後観と似ているので、自分にもう一度言い聞かせるためにしるしておく。

この作品の中心となる死後観は、三人の精霊が見せたものの中にある。人智学でいう「魂界」という場での経験と本質的には同じものだ。ディケンズは、なぜこのような作品が書けたのか、よくわからない。

映画ではちょっとホラーっぽく描かれているが、霊学的にはスクルージが見ているのは罰ではなく「自分が世界に残す痕跡」で、それを客観的に見ている。まるで、自分から外に抜け出て、自分をながめているように。

魂界でもまた、自分が生きてきた経験、思ったことの全部、人間関係などをもれなく、映像のようなもので見ることになる。人を傷つけたことも親切にしたことも全部、「絵画」のように見る、と言われている。魂界では、人は自分が与えた喜び・冷酷さ、他者の感情、社会的関係の網をリアルな感情として直接体験する。これは「自分が他人に起こした感情を、自分が引き受ける体験」をする、ともいえる。

スクルージは教義を信じたわけでも、善人になろうと決意したわけでもない。彼に起こったのは、世界が再び“生きて感じられるようになった”という魂の再接続とでもいえることだ。この映画は、「人は死ぬ前に、魂を生き返らせることができる」という、現代ではほとんど失われた希望を描いている。

通常、魂界体験は死後しかできないが、スクルージは生きている。これを霊学的に言えば、「自我がまだ肉体に結びついているうちは、意志によってカルマの方向を変えられる」と表現される。映画は、「生前に魂界を垣間見る恩寵」のようなものだ。

『クリスマス・キャロル』という映画は、人が死後に魂界で必ず体験することを、“生きているうちに引き受ける勇気があるか”と問う物語ともいえる。

ディケンズは、この作品を、物語でもなく昔話でもなく小説でもなく、キャロルつまり「歌」、と名付けた。「キャロル」は本来、クリスマスに人々が集まり、声を合わせて歌う歌を指す。繰り返され、共有され、心に染み込むもの、というこの物語自体が歌と同じ構造をもっている。映画を見る行為は、スクルージと一緒に“歌わされる”ことだともいえる。

クリスマスは、外的太陽が最も弱まり、内的な光が生まれる時だ。キャロルはその瞬間に歌われる。この物語もまた、人間の内に小さな光が生まれる瞬間を描いた“歌”に他ならない。

ディケンズは、スクルージのことを自らこう言っている。

「彼は心が凍ってしまった人間だ。だが、心が凍るということは、まだ溶ける可能性があるということだ。」

スクルージは裁かれず、地獄にも落とされず、“変わる自由”を与えられる。魂が自己を回顧する領域を生きられるのは、幸福なことのように思える。

ディケンズは“キリストの名”をほとんど出さずに、これを描けた。彼はキリストを、信じさせる対象ではなく、人間の内で起こる出来事として描いた。これは「信仰の物語」ではなく、「魂の事実の物語」と言えると思う。