冬至の日は、暦によると、北半球で昼が最も短く、夜が最も長い。
魂の観点では冬至とは、「物質的太陽が最も弱まり、心魂的太陽が最も近づく時点」と表現される。冬至は一年で最も太陽が弱まる瞬間と、内面の自我の光が最大限に目覚める瞬間が一致する。外界の刺激が最小となり、自分の心魂が最もよく見える時期でもある。だから冬至は、人が「役割を脱いだまま存在できる日」ともいわれる。
冬至の太陽は、「わかっていることを、実際に生きよ」という強い要請をしているようだ。人智学的に見た「この冬至に人間がすべきこと」とは、理由がなくても、見返りがなくても、説明できなくてもそれでもなお、人間として正しい方向を向くことだといわれる。
冬至にすべきことは、とてもシンプルだ。湯に浸かる、火を見つめる、静かに食べる、夜を尊重する。ただそれだけなのだが、外的に行う行為が大切だというのではなく、そこにどんな内的意識が働いているか、ということだ。冬至は「騒がず、灯さず、ただ心静かに迎える」日なのだ。
世界が行き過ぎたとき、いったん「人間」に戻るための場所と行為、それを冬至が教えてくれる。それは、沈黙の中で働き、目立たず、評価されず、誇ることもない。
冬至は、今年一年で経験した、憤りや失望、不安や足りなかった勇気を、評価せず、ただ“像”として静かに見る絶好のチャンスでもある。反省するのではなく、ただ見るのだ。運命は節目で書き換えられる。その最大の節目が冬至だ。神秘学の伝統では、冬至はしばしば、新年の“カルマの種子”とか、次の運命線の基礎パターンが生まれる日などとされている。冬至の夜に心に浮かぶイメージや直観は、来年のアストラル体に“設計図”として焼き付く働きをもつ。次の日から、日は長くなっていく。一陽来復だ。
冬至の日に身近に感じられる心身の変化をみてみよう。
夕方、まだ何かできそうなのに急に世界が閉じていく感じ。これは「外界の活動が人間から退く」感覚だ。足や腰が冷えるのは、意志が外に流れず、内側に沈んでいる徴候といえる。また、明りに敏感になるかもしれない。「闇の中に小さな光を灯す」行為そのものが、冬至の原体験となる。
食べ物に宿る冬至、と言えばもちろん、かぼちゃと柚子だ。
かぼちゃを食べるのは、ただの風習ではない。地中に近いかぼちゃの実は、太陽を内包した植物といえる。我々はかぼちゃを食べているのではなく、太陽を食べているのだ。かぼちゃは夏に実り、収穫後、長期間保存できる。つまり太陽が最も弱い日に、溜めておいた夏の太陽を差し出す植物だ。太陽のパワーを物質の内部に封じ込めた存在、それが、かぼちゃだ。
柚子は「鋭く、しかし温かい光」をもつ果実であり、その香りは魂に直接作用する。香りは頭脳で理解したり、分析されたりせず、直接、魂に届く。柚子は皮が厚く、香りが鋭く、酸味が強い。これは冬の重さの中で、意志を“切り開く光”といえる。お湯は身体の境界をゆるめ、自我を休ませるが、そこに柚子の香りが加わることで、暗さに沈みすぎる自我を、そっと浮かせるような働きをもつ。
太陽が最も北に退く日に、「南瓜」を食べるのは、北という「闇と死と静止」に対して、南という「太陽と火と生命力」で戦うためだ。この漢字表現は偶然ではない。「南瓜」という漢字がなければ、冬至は“ただの暗い日”になっていた。柚子の香りがなければ、冬至は“ただの寒い日”になっていた。この二つがあることで、冬至は“光の方向をしっかり持った暗さ”とでもいえるようなものになったと思える。
日本ではこの日に、大きな神名を唱えず、派手な祝詞を上げず、ただ湯に入り、食べ、静かに過ごす、というかたちが選ばれた。
今年の最も深い夜、南瓜を食べ、柚子湯に入り、ありがたく静かに太陽の力をいただこうと思う。明日からまた、すべての始まりだ。