映画、『最高の人生の見つけ方』の監督、ロブ・ライナーさんが亡くなって、あらためてこの映画のことを思い出した。
あらすじはこうだ。
≪余命宣告を受けた二人の男が、同じ病室で出会う。一人は、成功を極めた実業家。富と権力を手に入れたが、家族とも心を通わせず、孤独な人生を送ってきた。もう一人は、自動車整備工。家庭を持ち、誠実に働いてきたが、「自分の人生を生きた」という実感を持てずに老境を迎えている。余命わずかな現実を前に、二人は「死ぬまでにやりたいこと」をリストに書き出した。
二人は実際に旅に出る。極限の体験、壮大な景色、笑いと衝突。その過程で、二人は少しずつ、自分がこれまで避けてきたもの——家族との関係、後悔、恐れ、孤独——に向き合い始める。
そしてリストの内容は変化していく。「本当に喜びを感じること」「誰かを赦すこと」「愛を伝えること」。人生の“外側”を巡る旅は、いつの間にか、人生の“内側”をたどる旅へと変わっていた。≫
映画の中にこんな古代エジプトの話がでてくる。
人は死ぬと天国の門の前に立ち、門番から二つの質問をされる。「人生で、喜びを見つけたか?」「人生で、他人に喜びを与えたか?」。この二つに「はい」と答えられた者だけが、天国に入ることを許された、というものだ。
エジプトの『死者の書』には、この通りの話は見当たらないが、古代エジプトの死後観である、‘魂は冥界で審判を受ける’、‘心臓が秤にかけられる’という思想の本質と同じものを表わしていると思う。
この映画は、人生の終盤で「初めて生まれ直す」話だ。社会的役割としての人生を終え、自分自身としての人生をようやく始める。社会性と個人性をこの映画は、一応違うものとして前提している。
この映画が見る人に強く感じさせるのは、「自分は、まだ生きているのに、彼らほど本当は“生きて”いないのではないか」というショックだ。そして、「人生とは、外の社会への適応ではなく、“自分の人生だったかどうか”で測られる」という静かな審判を見せられ、それが心に刺さるからだろう。
二人は「これからやること」を語っているようで、実際には、自分が何に喜び、何を恐れ、誰に背を向けてきたか、を、生きながらにして回顧している。
同じ「余命」を扱いながら、死後観はかなり違うと思われるのが、黒澤明の『生きる』だ。
『生きる』の本質は、主人公が「死後に価値を持つ行為」を生前に一つだけ成し遂げることだ。その一つとはつまり公園を作ることだ。死後世界では地上の肩書・感情・成功はすべて脱落し、純粋な行為の質だけが残る。ブランコのシーンは、喜びでもなく、救済でもなく、“静かな満足”といえる。あれは生者の感情ではなく、死後世界から見た視線に近い。
『最高の人生の見つけ方』の死後観は、死後世界を信じさせることではなく、死後世界に“入れる生”をいま生きさせることにあると言える。死後に天国へ向かえられることができる魂の姿勢を“今生きているうちに”学ぶ、ということだ。死後の負荷を地上であらかじめ経験している、とも言える。
『生きる』はカルマ的負債を一点で清算する魂、『最高の人生』はカルマ的緊張を全体で緩める魂といえる。もちろん、優劣ではない。『生きる』では、死後世界は、生を裁く沈黙の場所という認識であるのに対して、『最高の人生の見つけ方』では、死後世界は、生が十分に引き受けられたとき、すでに始まっている。
同じ「余命もの」でありながら、一方は死後世界が生を見つめており、もう一方は生が死後世界へ身支度をしている。その差は、言葉ではない映像で伝わってくる。
古代エジプトの話の本質は、死後に問われることは、何を成し遂げたかではなく、どう生き、どう他者と関わったかということだ。
一つ目の問い、「人生で、喜びを見つけたか?」は、いいかえると、生を拒否していなかったか、恐れから逃げていなかったか、世界に関心を持っていたか、という問いだと思う。
二つ目の問い、「人生で、他人に喜びを与えたか?」は、「他者の流れを妨げなかったか」、「世界を余計に重くしなかったか」ということだろう。
この映画は、本来、死後に神々が行う計量を、“人間の自我の役割に返した”映画であると言えそうだ。『最高の人生の見つけ方』は、きわめて現代的で、正統なエジプト的後継と言える。
「あなたは生きたか」と「あなたは他者と共にあったか」という、現代人が逃げられない二つの問い。この問いこそがこの映画そのものだと思う。
この二つの問いが現代人に効くのは、神が裁かなくなった時代に、人間が自分を裁けるぎりぎりの優しさと厳しさを同時に持っているからだ。そしてこの問いは、おそらく死のためのものではない。「今日をちゃんと終わらせるため」の問いだ。それが結果として、死後にも通用する。
このような映画は、もう二度と出てこないと思われる。生きている間に見ることをぜひおすすめする。