今日、親戚の四十九日のお返しに、お菓子の詰め合わせセットをいただいたのだが、その中にマドレーヌが入っていた。たいへんおいしく舌の上で味わいながら、瞬間的に思い出したことがある。
それは、プルーストの『失われた時を求めて』だ。この小説にプチ・マドレーヌが出てくる。“それは、人間の時間・記憶・存在の構造そのものを一瞬で明らかにする象徴的な意味を持っていた。”と、大昔、仏文科で習ったような覚えがあるのだが、はっきりとは思い出せない。
小説の語り手が紅茶に浸したプチ・マドレーヌを口にした瞬間、「意志や努力とは無関係に幼年期のコンブレーの情景が奔流のようによみがえる」という場面がよく知られている。
重要なのは、思い出そうとしても思い出せなかった過去が、味覚・嗅覚などによって突然「現在に現前する」という点だ。ある臭いを嗅ぐと、それにまつわる過去の記憶がありありとよみがえる、という経験はだれでも持っていると思う。
プチ・マドレーヌ体験が示す核心は、「過去は消滅していない、ただ意識にアクセスできない形で潜んでいる」という洞察だ。適切な「鍵」が与えられた瞬間、時間は今に折り重なって現れる。プチ・マドレーヌは、時間が不可逆的に流れるという常識を破り、「時間は今現在も層として併存する」ことを証明している。人は、過去を再び生きることができるのだ。
体験によって語り手は、今の社会的役割や習慣化されたあきあきした自我、知的に構築された記憶などとは異なる、「生きられた自己」に触れる。
『失われた時を求めて』は、不随意記憶の閃光を言葉に定着させる営みといえる。不随意記憶(mémoire involontaire)とは、マドレーヌを口にしてはじめて思い出せることをさす。この小説の全体は、この一瞬を言語化し直すために存在するとも言える。
人智学的に言えば、下層の味覚や嗅覚の感覚を通じて高次の時間層が開かれたと読む。それは、意志・努力・思考操作では到達できない。日常的な自我が一瞬後退し、感覚や情動の「ゆるみ」によって突然起こる。「偶発的な霊的体験」と言えるかもしれない。
プチ・マドレーヌの意義とは、「人生は失われてなどいない」ということではなかろうか。時間は回復されうるのだ。
この小説のあらすじを暴挙的に書くと、
語り手は病弱な少年として育ち、母への愛着、初恋、芸術への憧れを抱き、上流社交界に出入りし、愛と嫉妬に翻弄され、人々が老い、変貌し、死んでいくのを見届け、自分自身も時間の中で失われていく、という人生を送る。
物語の最後で、不随意記憶が連続して起こり、自分の人生の断片が、実は一つの意味ある構造を持っていたと悟り、「これを書こう」と決意する。
この小説の本質を言うとすると、
“人生は、生きているあいだには理解できない。人は体験している最中、愛している理由も、苦しんでいる意味も、失ったものの価値も、ほとんど理解できない。”ということではないだろうか。
つまり、「理解は時間が失われたあとにしか訪れない。」ということだ。
人生は断片的で偶然的で後悔と誤解に満ちている。しかし小説のような芸術は、それらを否定せず、配列し直し、意味として定着させる。プルーストにとって文学とは、人生を美化するものではなく、人生がすでに持っていた意味を“遅れて読み取る”行為だったような気がする。
キリスト教は、「苦しみは意味を持つ、愛は最終的に回復される、失われたものは神のうちに保存される」、という超越的保証を与える。しかしプルーストが見つめていたのは、「取り返しのつかない誤解、報われない愛、和解しない関係、何の徴も与えられない苦しみ」、だった。
プルーストは、神を導入すれば、文学的には不誠実になってしまう、と考えたのではないか。プルーストは、「人生は生きられている間はほとんど無意味に見える」という事実を、一切薄めずに引き受け、それを小説にした。この小説は、祈りではなく、告白でもなく、教義でもなく、文学というもっとも不安定で、保証のない形式といえる。
「人生は、あとになってしか分からない。」という意味が深く刺さるような思いがする。
『失われた時を求めて』は非常に長い小説だ。生きている間に読み切るのは難しいかもしれない。