
「坂口尚と一休展」のフォーラムがあり、参加してきた。≪坂口尚からみる禅と日本まんが文化≫というものだ。
漫画家の坂口尚は晩年、『あっかんべェ一休』を描いた。禅僧の一休宗純の生涯を描いた作品だ。解説的に言うと、“生きる意味、仏の道、人の道を問う一休の苦悩や生活が描かれている”のだが、読んでいるうちに‘異常で奇抜で変な禅僧’などと言われる人の本当の姿を知りたくなった。
本当の姿に少しでも近づくには、決して研究者の書いた論文や専門家の発言などを読まないことだ。少なくとも初めは。本人が書き残したものを読んで、自分が感じたことからアプローチするのがいい。
一休禅師は、自分のことを風顛(ふうてん)とも妖怪とも風狂とも言っている。風顛とは辞書によると、「常軌を逸した行動をすること、通常の社会生活からはみ出して、ぶらぶらと日を送っている人」などとある。また、「傍若無人で周囲が驚かされるような言動をする者」を指していたらしい。
‘ふうてん’というとすぐに「男はつらいよ」のフーテンの寅を思い出してしまう。何ものにも束縛されず、自由気ままな旅暮らしのようなイメージがあるが、そんな人物像はとりあえず、心の隅に置いておこう。
一休の『狂雲集』から、人柄を探れそうな文をあたってみた。松本市壽氏が書かれた『ヘタな人生論より一休のことば』(河出書房新社)から引用する。
●自己をひけらかして売り込む者は、心に深く貪欲を隠しもっている。その心中では、ひそかに黄金を追い求めているのだ。
●禅にふけったかと思えば、詩作にも夢中になり、男色や女色の情事をほしいままに過ごしてきた。(中略)家畜にも等しい本能むき出しの無分別な行ないを俺もやってきた。
●威勢のいいことをいって名誉をほしがるはかりごとばかり。こんな人間になってしまうと、いったい誰がきびしく対処できるというのだろうか。禅の古則や公案で心はますます濁り、せっかくの醍醐(乳酪)も毒薬となるだけだ。
●参禅しにやってきた女を真白い帳の中に迎え、部屋に通した美人を香りのよい褥に入れては形だけの参禅をさせる。近頃のこの邪悪老師の間違ったやり方は、馬や牛に等しくて、人の道を踏み外している。
●荒々しい心や、怒りや恨みも、欲情の思いは出家する二十年前と同じくいまでもあり、なくなりはしない。汚れた俗世間から超越し、一切の煩悩を断ち切ったはずの俺を見て、カラスは嘲笑するが、陽光を受けて歌う美人を見れば、もうどうすることもできぬほど気持ちは高鳴るよ。
●かつての情事を自嘲して何か清々しい味わいがある。
●仏法の大道が廃れた時には、人間の世界の都合のみが幅を利かせて威勢をふるう。仏の知恵から離れてしまい、経典とか言葉の意味ばかりにこだわり、それのみを深く追求するようになる。
きりがないので、この辺にしておくが、文章から見る限り、変人でもなんでもなく、権威を嫌う反骨精神旺盛で人情に篤い、ごく普通の正義漢のように見える。
奇抜な言動の逸話が残っているようだが、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。でも、それは外から見えたことだけだ。
『狂雲集』に見られる破天荒な言動は、「狂」の表現であって、実はアストラル体を驚くほど透明化し、自己意識化した人の特徴がみてとれる。アストラル体に潜む欲望を包み隠さず見つめ、それを言葉によって対象化し、恥・恐れ・聖俗の二元論を突破する。「狂雲」の奔放さは“心を徹底的に観察し、偽らず表す”という一種の修行法だったように思われる。
一休は「アストラルの闇」を否定するのではなく、意識の光に引き受けるという高度な修行をしていたように思える。高次の自我が破天荒な行動をいつも見つめている、という感じだ。“狂”を演じつつも、完全に自分で制御していて、道化・酒・恋愛すら「魂の道具」として使っている。
一休が常に、酒を飲み遊女と交わり、卑語を使うのは、単なる反抗ではない。道徳の既存形態を外側から叩き割る儀式と言えるのではなかろうか。
『狂雲集』には激しい言葉が多い。しかし読めばわかるが、一休は怒りに呑まれてはいない。怒りの流れを自分の意識でつかみ、方向づけ、詩へ変換している。
ときに、一休は極めて静かな哀愁を語る。 人生の無常と孤独と老いだ。 「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」の歌から、それがにじみ出ている。
現代社会でも“一休的現象”とでもいえそうなことが現れている。YouTubeなどの「素人の智慧」系チャンネルの広がりだ。既存の学術や権威を相対化し、庶民の声が真理に触れる場。これは一休の“乞食・市井の中で悟る”構造と同じだ。
“肩書きや正解に興味がない”態度、これほど自由なあり方があるだろうか。職業より生き方、形式より体験、正しさより自己の声、これは一休が「聖も俗も脱ぎ捨てよ」と言った方向だ。近代の崩れた地盤の上に新しい「魂の語り」が発生している。
制度を作る人間も、学者も、伝統的宗教者も、今は力を失っている。多くの人が“どこにも書いていない生き方の智慧”を望んでいるのではないだろうか。専門家よりも、「同じ場所で悩んだ普通の人」の言葉が響くはずだ。
料理、掃除、健康、農業、節約、家づくりなどの動画には、自然のリズムと調和したエーテル体の知性が宿っている。宗教よりも生活の中に霊性が戻ってきている。一休さんの魂が600年の時を経て、再来しているのかもしれない。