人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

冬の星空を“想う”

射手座 オリオン座

夜空を見上げて、色々な星たちを見つめたいのだが、高層ビルの狭間では難しいものがある。だから“想い”を馳せてみた。

今は、西洋占星術でいうと、射手座の領域にある。射手座は「矢を放つ」という行為そのものが象徴で、世界へ向かって飛び出し、境界を超えて真理を探す星座だ。

射手座は、よく半人半馬のケンタウロスと結びつけられる。ギリシア神話の中では、このケンタウロスは、高度な知性と野性の生命力を併せ持ち、医術、音楽、戦術、哲学を教える賢者の師であり、自分の傷が癒えないことを諦念を持って受け入れ、人類のために犠牲となった、という「傷ついた賢者」として、理想的な姿で描かれている。

人智学の視点では、射手座は、霊的に方向を定めた思考が、行為へ向かって一直線に貫通する力を象徴するとされる。ケンタウロスの下半身は感情的な本能だが、上半身は高い目的を目指す精神だ。高みに向かって、自分の内なる混乱を一つの方向へ集中する力、それこそが射手座のイメージから伝わってくるものだ。

射手座は、「人生の矢を、どこに撃つか」を問う星座といえるのではないだろうか。

射手座には実は、“オリオン座的な勇気”との相互作用もある。オリオンは“火を点火する”役で、射手座は火をどちらに向けるか、が示される。オリオンは、偽りを見破る光であり、勇気と断固とした立ち上がりを表す。射手座は、その勇気の光を“矢として一点へ貫く”役を担う。この連携こそ「現代人の魂に必要な二段エンジン」といえる。

オリオン座の力の本質は、偽り・混乱に対して正面から対峙し、精神の光で暗闇を切り裂く、思考の純粋性を守る、という点にある。しかし、この勇気には弱点があり、火は燃え立つが、方向付けが弱く散漫になりやすいという点だ。

射手座は火の星座でありながら、火を一本の矢に“絞り込む力” を持っている。思考を一つに集中させ、本能・感情を高い目標へ整流し、小さな行為へ変換する。また、持続の力がある。これは、オリオンの炎とは違い、“火を目的へ向かわせる”意志の勇気”の存在と言える。

人智学的な‘星の実習’は、このようなものだ。ロマンティックなものではないかもしれない。

冬の空でオリオン座を見かけたら、オリオン的勇気を呼び起こし、いま直面している“偽り”や“恐れ”を一つ思い描き、「ここでこのまま私は立っていく」と星に宣言する。もし、射手座も見られたら、その勇気を、どの行為へ向けるかを思い、言葉にし、その一文に従って、明日できる最小の行為を一つ選ぶ。

ケンタウロスは、上半身が人間、下半身が馬。この「上下の分裂」がそのまま人間の内部構造である、理性と本能の葛藤を象徴していた。ギリシア人は、この二つを統合できていない存在としても、ケンタウロスを描いたのだ。

ケンタウロスは、野蛮でもあるが、ギリシア神話では例外的に、高潔で賢い存在として描かれ、アキレウスやヘラクレスなど英雄の師であり、医術・音楽・倫理の教師でもあり、自己犠牲の精神をもつ存在でもある。つまり、本能と理性を調和させた理想的人間像を象徴していた。神話では、理想的存在としてケイロンと呼ばれた。「自我が意志を調和させた“未来形の人間”」だ。

現代人の、頭(知性)は高度に発達し、しかし意志(馬の部分)は古いまま、感情はすぐに暴走、という面を見ると、“ケンタウロス的構造”を内に持ったまま生きていると言えはしないだろうか。ケンタウロスは「過去の怪物」ではなく、今も内部に住んでいるような気がする。

こう考えてくると、三段階の人間進化の図式が考えられるように思う。

第1段階は、ケンタウロス。
自我が弱く、アストラルが支配し、本能の馬に引きずられる。

第2段階は、オリオン。
自我がアストラル体を貫き始め、勇気によって“恐怖”を克服し、
思考がすこしずつ直立し始める。

第3段階は、射手座。
自我が意志を完全に方向づけ、行為は“霊的目的”と一致する。
ここまでくると、「霊的戦士」ともいえる存在になる。

自分のことを見てみると、どう考えても第1段階のような気がする。いつになったらオリオンになれるのだろうか? オリオン座だけは、ビルの谷間からよく見える。星に願いをかけてみることにする。