人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

“超”遠距離愛について

「離れても~好きな人~」という歌があったと思うが、好きな人と遠く離れているときのほうが思いが募ってしまう、という心は古来、心理学や、文学・哲学、霊的観点からも表現され言及され吐露されてきた。

「近くにいると、相手のありのままの姿も日常も目に入る。でも離れていると、相手の欠点が見えにくくなり、理想的なイメージがふくらみ、“脳内の相手”が美化される、ということが起こる。」というような心理学的な説明は、その通りかもしれないが、ちょっとつまらない。

届かない恋のほうが燃えてしまう、という想いは誰もが持っているだろう。私も、うん十年前には確かに経験した。ただ、それを言葉で説明してしまうと、「人の恋路をじゃまする」ことになりかねない。

“離れているほど心が育つ”という感覚は、日本人の文化の底にいつも流れていた。古来、歌や文が生まれる所には会えない時間や距離が必ずあった。説明ではなく、歌わずにいられないのが人のさがだ。

人智学もやはり“説明的”なので、あまり面白くないのだが、一応紹介してみる。

恋愛は、人間の感情体が最も強い活動領域とされ、離れているとそれが強く働くために、感情が強度を増す。近くにいると肉体と日常が間に入り、精神が“安定”しているが、離れると物質の鎮静作用のようなものが少なくなり、感情の“純度”だけが前面に出るので、苦しくも強い“恋の火”が燃えるわけ、という説明だ。

シュタイナーは、「人は会えない間に魂が相手と交流している」、と述べていた。これは、“会えないことは、魂的な出会いを強める”とも言いかえられる。夢の中に出てくることもある。

生きている者よりむしろ強く起こりやすい、と言えるのが、死者との関係だ。

亡くなった人はもう姿を見せず肉声も返さない。すると心は見えない空白や途切れた会話や叶わない「もう一度」を埋めようとし、想像の中で“その人”を鮮烈に再構成しようとする。

これは、遠距離恋愛の現象が極度に強まった形だ。生きていれば相手の欠点や機嫌の悪さも見えるが、亡くなった人とはもう「地上での接点」がない。そのため死者は“記憶の中の理想像”へ向かって強く心の中で凝縮される。

シュタイナーはこうも述べている。「生きている人が深く思えば、死者はそれを感じとる。」と。

遠方の恋人は、距離の隔たりだけがあるが、死者とは、次元の隔たりという違いだけで“仕組みは同じ”だ。文学で描かれる「亡き人が生きていたとき以上に愛おしい」という現象は霊的にも説明がつく。

「死者を思う」ことが、過去だけにとらわれることへ縛られると、ちょっと問題かもしれない。「死者とともに未来へ歩もう」という気持ちがあると、死者との交流は健康に働くように思える。

死者とは、“超”遠距離愛でもあるが、距離の全くない愛ともいえる。心が一緒なら、距離は存在しない。天界にいる父と母に今度聞いてみることにする。