人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

感謝祭のない寂しさ

日本には、感謝祭にあたる記念の意識がない。これは、悲しいことだ。なぜないのだろうか?

アメリカの感謝祭は、冬を越える食糧が人々の協力によって確保でき、“死なずに済んだ”ことを共同体で祝ったことからきていると聞いた。だから、最初の収穫祭は「生存の確認」であり、「死の回避」の祭りといえ、感謝祭には、いまもなお“食卓を囲む”“共食”が中心儀礼として残っている。

感謝祭には、普段会わない人と会う、不仲でも顔を合わせる、過去のことを持ち越さない、手作りの料理を分ける、ということを大切にしようとする。血縁や友情を構築する年次メンテナンスのような機能を持っている。アメリカ社会は「孤立しやすい社会構造」を持つため、精神の安定に家族的なつながりを定期的に呼び戻す必要があるからだ。

感謝祭は“人間が生きる基盤は自分の意志や能力だけではない”ということを思い出す儀式でもある。大地の恵み、他者からの支え、予期せぬ助け、自然のリズムなど、これらを恩寵として受け取ることが、その本質のように思える。

では、日本はどうなのだろうか。孤立しやすい構造は、同じようにあるように思える。新嘗祭は、感謝祭のような人間関係や共同体を回復する儀式ではなく、人間と宇宙や自然を再接続する儀式だ。感謝祭が、人間関係に救われたという記憶が核になっているのに対して、新嘗祭は、天皇が新穀を天の神々に供え、自らも口にする、宇宙と一体化する儀礼といえる。

新嘗祭には、人間同士の関係性は関わらない。行為の中心は、自然・宇宙との“霊的交感”という、言わばタテ関係なのだ。そこに地上のヨコ関係、つまり人間どおしの協力という意識はない。

それでも、「生かされている」という感覚の回復という点では、共通している。感謝祭は、人間関係・他者・コミュニティ、新嘗祭は、大地・天・宇宙の霊的秩序、という‘対象’の違いはあるけれど。

アメリカでは、神への感謝と人への感謝の二つが、すくなくとも表面上では存在する。それに対して、日本では、神への感謝はあるが、「人への感謝」はどうなのだろうか?「自分ひとりで生きていくのだ」、「他人の世話にはならない」という思いが強いような気がするが、思い過ごしだろうか?

新米には感謝するが、農業に携わる方への感謝の気持ちはあるだろうか?高いお金を払ってコメを買っているのだから、「それで対等」、なのだろうか?