人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

食われてなんぼ ― 大いなる依存

寄生昆虫を追うテレビを見て驚いたのは、地球上の生物のなんと40%が「寄生」という生態をもつ、という事実だ。寄生とは、「自らの生命維持や発展に必要なエネルギーや労力を、自力では生み出せず、他者に依存して得る生存方式」だそうだ。この“方式”は、誰が、または何が生み出したのだろうか?

ふだん、「寄生」ということを考えたことがないので、調べてみた。

生物学では、観察した事実によって寄生の意義を述べている。
自分でエネルギーを作るより、すでに他者が作ったものを奪うほうが効率がよいので、寄生体は自立的な消化・吸収機能を捨ててしまう。“私は私である”という機能を削り、その一部を宿主に外部委託する存在とみている。

哲学では、寄生を倫理的に“悪”とはみていない。
エネルギーを自分で生産する、生命の維持を自己完結する、関係性の中で自己を保つ、という自立性には限界があるということを、寄生は示している、といった観点を持つ。
生命は本来、単体で完結するようにはできていないのだ、という論をまた持つ。巨大な食物エコシステムの循環の中では、食う・食われる、栄養を与える・吸収する、という極端な形態の一環にすぎない、と考える。

人智学の視点で言えば、寄生とは、
「生命を自力で創造できないがゆえに、他者の生命力に乗る現象」。とみる。
魂が成熟すれば、自分の生命力を生むことができるが、未成熟な段階では、他者の世界に乗って 他者の力を使うしかない。

社会学で寄生を見ると、
何も作らず権利だけ取る、生産せず管理だけする、技術だけ吸収し文化を自ら産まない、思考せず結論だけ借りる、といったことがあげられるだろう。

どの視点で見ようと、寄生は、生命が通る一つの“成長段階”であり、「悪」ではない。見方によっては、自分はいかに父母に“寄生”して、大人になれたか、と思わずにはいられない。はるかに、「すねかじり」以上だ。

寄生を理解しようとするとき、こう問いたくなる。

「生命とは本来、何を自分で行い、何を他者と分かち合う存在なのか」
という問いだ。

人間とは、「自分一人では完結しない“何か”を抱えて生まれ、それを他者と分かち合うことではじめて人間になっていく存在」だと言える。「欠けている」ものを持って生まれてくるようにしたプログラムには、深い叡智を感じる。

分かち合うべきものは恐らく、単なる“物”ではなく、もっと根源的で、生きる本体に関わるものだろう。集団で狩る、技術を記憶し継承する、集団で子育てする、というような生存戦略そのものが、分かち合いの前提になっている。自己保存ではなく集団保存が人間の本能といえそうだ。

感情もまたそう言える。
一人で嬉しいとき、誰かに伝えたい
一人でつらいとき、誰かに聞いてほしい
称賛も、反省も、承認も、批判も“他者の鏡”を必要とする。

「補い合う弱点」を互いに持つ存在、これほど人間の本質をついている言い方はないように思う。他者との出会いによって“自分の本質”に気づくように作られているわけだ。

人間の世界では寄生は、依存、模倣、他者の人生に乗る、SNSで生きる、などの形で再現される。それは“分かち合いの初めの一歩”と言えるかもしれない。