人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

ゲゲゲ忌に想う

もうすぐやってくる。おお先生の旅立ち記念日だ。ファンの間では、だい先生とは呼ばず、おお先生と言う。「だい」と「おお」は全然違う。だい先生は、世の中にいっぱいいらっしゃるけれど、「おお!」といえる先生は水木しげる先生だけだ。先生は、感動を越える世界に住んでいらした、私が崇敬する数少ない先生だ。哲学者も宗教者も民俗学者も超えた、はるかな認識を持っていらした。それをイメージにして見せてもらった恩恵は計り知れない。

水木先生の作品は、どんな観点からみても素晴らしいのだが、今は、民俗学の視点から振り返ってみたい。

「土地が変わると妖怪も変わる。」という目線で振り返ると、妖怪にも性格がある、ということが見て取れる。大まかにみると、東北の妖怪は重く湿り、関西は軽妙でユーモラス、西日本は陽気で朗らか、などの違いだ。

たとえば、河童。関東・東京周辺では、いたずら好きで人を川に引きずり込むタイプだが、九州・筑後川周辺では、農業に関わる話が多く、川の水を大切に扱うよう教える妖怪として描かれる。性格はやや「厳格」で教育的だ。『河童の三平』では、いたずら好きで人間と交流するコミカルな一面が強調された。

雪女はどうだろう。東北の豪雪地帯では、寒さの厳しさから「凍らせる」「命を奪う恐ろしい存在」として描かれ、人々の恐怖心が妖怪像に反映している。雪が少ない関西地方では、恋愛や儚い美しさを象徴する妖怪として描かれ、「雪の精」的な美しい存在になっている。『妖怪大戦争』や『ゲゲゲの鬼太郎』では、雪女は美しさと恐ろしさを兼ね備えるキャラクターに仕上げられている。そこでは、単なる恐怖の象徴から「人間的感情を持つ存在」に変化している。

天狗はというと、京都・高野山周辺では、修行者に知恵を授ける教化的存在で、学問や修行の象徴として尊敬される。信州・北アルプス周辺では、山に迷い込んだ旅人を脅かす、いたずら好きな存在として描かれることが多い。『悪魔くん』では、天狗は超自然的な能力を持つキャラクターとして登場した。天狗の性格は、物語の必要性と地域性が合わさって、教育的になったり、ユーモアな存在になったり、様々に変化する。

座敷童の性格も違ってくる。有名な岩手・遠野地方では、福をもたらす愛らしい存在として描かれ、「家に幸運をもたらす」という性格だ。江戸周辺などの都市部では、いたずら好きで、ちょっと怖い印象があり、都市の家屋事情に合わせて「警告する存在」的な側面が強い。

土地ごとの妖怪の性格は、川・雪・山・森などの自然環境や農業・都市生活・修行文化などの生活様式、恐怖・尊敬・教訓などの土地の人々の心理によって変化する。妖怪は固定された存在ではなく、土地のいわば「風土霊」の影響を色濃く受ける存在なのだ。

水木妖怪は元の土地の伝承を尊重しつつ、地域ごとの性格の違いを物語に活かしており、物語上の「面白さ・感情・ドラマ」に合わせて妖怪の性格が柔軟に進化している。

山には山の精、森には森の精、町には町の守護霊、地域には地域のカルマがある、という考えも作品からうかがえる。日本妖怪の特徴は人格霊ではなく、場所や習俗から発生するという認識が水木先生にはあったにちがいない。

砂かけババアは、山道・夜道という“場の気”、河童は水辺の霊性、座敷童 は、家という“生活空間の霊”、ろくろ首は宿に残った怨念、天狗は山の威圧感・霊気、といったように。水木妖怪の多くは人より先に“土地の霊的性質”があることを前提に描かれているように読める。

水木先生は、「妖怪は土地の気から生まれる」、「土地の気を感じられない人間は、妖怪に出会えない」とおっしゃっている。自然の背後にあるものを感じられなくなっている現代人には、自然霊はもう見えないのだろうか?

今度鬼太郎に会ったら聞いてみることにする…。