人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

変身願望はありますか?

今、アニメなどで「普通の人が突然、異世界で別の存在になる」というテーマが爆発的に増えている。異世界転生や魔法少女、各種ヒーロー、モンスターや吸血鬼、天使などなどだ。

また、メイク・整形・服装・ヘアスタイルをはじめ、コスプレやゲームキャラやアバターなど、現代人は、社会的役割や属性をある程度自由に変えられるという時代になっている。

ここでひとつ、職業という観点で仮説を立ててみた。

「変身願望を最も純粋なかたちで満たせる職業は俳優である」というものだ。

俳優は、‘別の人格を生きる’、‘別の人生を体験する’、‘舞台上ではその人物として魂を宿す(つもりになる)’ということを、仕事として毎日のように行う。俳優は「自分の魂の可塑性を極限まで鍛える仕事」といえる。

もちろん、俳優の変身は、感情やメンタルの癖、リズムや動きの変容にとどまる。自我を変えるわけではない。だから本当の意味での、「心魂の変身」とは違う。人格を“演じる”だけなのだが、願望は十分に満たせるとおもう。演じる人間の種類がすごく多いからだ。俳優は、どんな人間にも「なれる」。言わば「変身の技術者」ともいえる。

俳優と比べて、AIアバターはどうだろう。俳優や声優が「肉体という限界の中で変身する」のに対し、アバターは肉体そのものを“交換可能”にしたという点で、変身願望の構造を根底から変えてきているような気がする。

同じ人が、現実では無口でもネットでは明るく社交的、など、複数のキャラを“同時に生きる”ことが可能になった。これは「人格は一つであるべき」という常識が崩れたことを意味しているのかもしれない。

欲望・感情・衝動が、肉体ではなく「デジタル身体」に宿る。つまりデジタルが“第二のボディ”になる。魂が「電脳身体」を媒介として世界と関わるという人類史上初の事態だ。

古代では「変身」は自分を鍛え、広げ、人格を成長させ、他者理解を深めるという“内側への変化”が中心だったが、現代では、顔を変え、声を変え、種族も性別も超えることによって、心・態度・自信・人格が変わるという、プロセスの逆転が起きている。

俳優はもちろん「役と本人は別」である。だが、アバターでは、本人がキャラに飲み込まれ、キャラの人格が本体に影響する、という逆転も起こりえる。それは、魂が肉体を作り決めていたのが、肉体が魂を作る、という転換が起きていると解釈できる。

現実の人格には 、家庭環境や受けてきた教育、肉体、既存の社会的役割などの条件が付いて回り、それらに「縛られて」生きている。

しかしアバターは、その制約を一時的に無効化してくれる。その結果、普段はできない自己表現、現実では持てない社交性、別の性別・別の種族・別の時代の人生体験などが可能になる。これは魂が新しい体験の可能性を得た
ことを意味しているのかもしれない。

一方でデジタル身体は、キャラが暴走する、本体が飲まれる、自分がどれか分からなくなる、という“自我の希薄化”が起きやすいともいえる。役を演じる俳優は、少なくとも自我が役をコントロールしているはずだ。デジタルの世界では、人格の分離、魂の不統一という現代特有の課題も同時に進行している。

なぜ人はいくつものキャラを望むのだろうか。それは、たったひとつの人格では、生きる世界の複雑さに耐えられなくなったからと言えるのかもしれない。現代社会は、職場・家庭・SNS・趣味・コミュニティなどがまったく異なる価値観で動いているからだ。

魂はそもそも、仕事での自分、親としての自分、友人に見せる自分、恋愛をする自分、内面的な孤独な自分、のように多層でできている。デジタルの世界は、もともと潜在していた“多重人格性”を外に出しやすくしたといえる。

現代の自我は、中心が弱く、自分軸が見えにくいため、ひとつのキャラに魂を統合できない。その結果、場面ごとにキャラを切り替えて自分を守る必要が生まれる。職場では礼儀正しく、オンラインでは本音の自分、等々だ。

こうして見てくると、まるで一つの魂が一生のうちに複数の転生を同時進行しているかのようだ。これは、いいことなのだろうか?どれが「自分の中心」か分からなくなる、ということはないのだろうか。

“あるキャラで生きているとき、魂がどう働いているか”ということの自覚が必要な気もする。キャラで活動しているとき、もともとの自分の“欠けを埋めるため”に動いているならそれは補償的人格だ。逆に、 なぜか放っておけない、説明できないけれど“やらずにいられない”、使命感のように燃える、という動きをするキャラは、魂の本体に近い。

今の自分に多少とも満足できない人が、他者的なあり方を望むのだと思うが、今のままでは本当に「ダメ」なのかどうか、よく考えてみることも大切なような気もする。年をかなり取っても、自分の良い部分や新しい部分にまだ気づかないということがありえる。外を探すのも結構だが、内も探してもらいたい。