日々色々なものを“消費”しているが、そもそも“消費”とは、人にとって何を意味するのだろうか?
漢字レベルでいうと、「消」は、減少させ・使ってなくす、であり、「費」は、費やす・使う・支出する、という意味だ。だから消費は、“使って減らす”ということになる。
近代経済学では、「生産」と対になる概念となる。「商品やサービスを買って使う」というほどの意味だろうか。
「使って減らす」という意味を人智学で解釈するとどうなるか?を考えてみたい。
内的には、それは経済活動ではなく、人間が精神界から受けた力を “物質世界で変質させ、返す” という行為として理解される。物質は死んで固定化されたエネルギーだが、その「固定化」された力をふたたび世界に生きたものへと解き放つ行為、それを「食べる・体で使う・燃やす・着る」等々の消費といっている。
消費行動をするということは、物質に固定された宇宙的力が、人間の意識と生命を通って再び運動へ戻されることといっていい。
物質界で“減る” という現象は、精神界では逆に“増える”ことを意味する。例えば、食べ物を消費するとき、それは身体の中に入って分解されるわけだが、その時生命力が解放され、生きる力となる。時間を使うときは一般に、意識が成熟する。これは、精神的には“増える”といえる。
消費には、注意すべき面もある。“快楽の獲得”、“量の増加”、“所有の強化”を目的にしてしまうという側面だ。そうすると、力の流動を止め、物質を絶対視し、 数値化・機械化で世界を凍らせ、自我を「自律した機械」へ縮減させる、ということが起きる。
価格はそのまま価値であり、売れることは無条件に良いことであり、量が多いことは豊かさと同じである、という意識はないだろうか?現代社会では、広告が欲望を設計し、流行が消費パターンを誘導し、「個性」さえマーケティングによって供給される。消費社会では、時間も、短縮・効率化・最適化が至上価値になっている。精神的な発酵の時間が奪われ、意識は “反射的存在” に退行している。
対抗策は、このようなものだ。
・“質”を見る。数でなく、物の背後にある労働・生命・自然の働きを見る。
・“必要意志”と“誘導意志”を区別する。欲望の出所が自分の内か外かを感じ取る。
・時間を熟成させる。即時性の誘惑から距離を置く。
人智学では「消費とは、他者の生命と労働と精神力に触れる行為である」という認識を基調としている。商品やサービスには、必ずそれを作った人の意志、労働の質、心の状態、自然界の力が含まれている。だから、人が消費する時、他者の生命プロセスに自分の内面がつながっていることを意識したい。
そういう気持ちで何事も“消費”すれば、なんだか楽しくなってくる。物やサービスを通して、他人とつながれるのだから。モノやサービスは、キューピッドのようなものかもしれない。