人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

日常の中で“懐かしさ”を生きること

寺島町奇譚 滝田ゆう 

毎日同じような繰り返しで、倦んでいる人も多いかと思う。私もそうだ。「繰り返しの意味が分かっていない」と、よく師匠に言われたことを思い出す。その意味を今尋ねようとしても、もうそれは現世ではかなわない。

この時季、過去を振り返ることが多い。なぜなのかは、わからない。あまり、残り時間がなくなっているせいかもしれない。

ここのところ、なぜかよく思い出すのが、『寺島町奇譚』である。滝田ゆうさんの代表作といっていいこの漫画を読んでいると、無性に懐かしさを感じる。今から50年以上前の作品だが、舞台になるのは、東京都向島区寺島町で、永井荷風の小説『墨東奇譚』にも描かれた玉の井の遊郭風景を描いたものだ。

主人公であるキヨシ少年の一家は寺島町で「ドン」というバーを経営していて、銘酒屋の客や女たち相手の店だ。家族は、遊び人の父親、働き者でやきもち焼きの母親、年の離れた姉、祖母…、それに猫のタマがいる。夜の巷に広がる男と女のさまざまなドラマ、生きるための葛藤、それになぜか強く惹きつけられる。

キヨシ少年は大人たちの悲喜こもごもよりも遊ぶことに夢中だ。ベエゴマやメンコ、けん玉、ササ舟のレース、だるまさんが転んだ……。町には肥桶を積んだ荷馬車も通るし、荷を肩に担いだ刃物研ぎ屋もやってくる。そして、キヨシの大好物である玄米パン売りのおじさんも。夜の色街も、昼間には子どもの神聖なる遊び場なのだ。

滝田ゆうの作品は、子どもごころや昭和の街並み・風俗の描写に秀でている。濃厚な昭和の町や人々の生活の描写が何とも言えないほど懐かしい。場所そのものに時間と記憶が染み込んでいる感じがする。

幼少期・少年期の記憶と現実との対比、誰にも言えない秘密や孤独、社会の変化に取り残される個人の感覚、ここから漂う哀愁と孤独感に完全に同調してしまう。

“どこか影を帯びた世界”、それに強く魅かれる。作品に常に漂う「静かな哀しみ」は、たしかに私のものと同じだ。登場人物の孤独や葛藤が、町や風景に染み込む描写こそ、私が惹きつけられるわけなのだと思う。

『寺島町奇譚』では、普通の商店や家庭、町の行事など、読者に馴染みやすい現実の風景が基盤となっているが、そこに非日常的な事件が差し込まれ、現実と幻想の境界が曖昧になっている。「ありそうでない世界」を味わいながら、日常の細部の美しさや哀愁を感じられる、というのが素晴らしい。読者は人間の脆さやユーモア、哀しみを、町の風景とともに自然に感じ取る。

「日常の中の非日常」を感じさせるところが、滝田ゆう独自の世界観といえる。寺島町の夜の屋台の風景、客や店主、町の人々の会話、屋台の灯りや匂い…。もうそれだけで十分だ。わたしは、50年前に帰っていける。

これは決して、後ろ向きに生きる、ということではない。過去の経験は、いつも今存在している。多層的な時間は、いつもここに空間的にも存在しているのだ。

そう思うと、まだまだ生きていけるような気がする。