人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

「物の音」に想うこと

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『日本の音』小泉文夫 平凡社
<小泉文夫先生の『日本の音』を読んでいて、「もののね」ということが気にかかり、少し調べてみた。漢字では「物の音」と書く。

ギターのはるかな源泉は琵琶のようなので、琵琶のことを調べているうちに、古典文学の中で「物の音」や「物の怪」という興味深い言葉にぶつかった。

ひとつは、徒然草の十六段だ。
「神樂こそ、なまめかしく、面白けれ。大かた、物の音には、笛・篳篥、常に聞きたきは、琵琶・和琴。」
とある。物の音とは何かという説明はもちろんない。

もう一つは、源氏物語の第三十五帖 若菜下にある。
「この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。」
と書かれている。ここでは「物の音」を楽器と訳している人もいる。

昔の人が、琴の音を「物の音」と呼んだその深意とニュアンスは、想像するしかないが、宣長が「もののあわれ」と言ったことがヒントになるようにも思える。

「もののあわれ」を解釈すると、「世界はただ“対象”としてそこにあるだけではなく、意味や気配を秘めて眼前に現れる。その現れに触れたとき、こちらの魂の奥に共鳴が起きる。その共鳴こそ“あわれ”である。」ということだろうか。対象は、「もの」として現前している。

「物の音」もほとんど同じことを言っているように思うのだが、古代の日本では、自然や道具や楽器そのものに「魂」が宿ると考えられていて、そのために楽器を奏でることで物の本質に触れていたのではないだろうか。

神事や祭礼では、物の音を通して神や自然の霊と交流すると考えられていたように、琴の音は、弦や竹という素材の本質や、作り手の意図を反映している、と思われていたに違いない。

現代では音楽は、作曲・演奏・音響のことと思われているが、古代の「物の音」では“音そのものに物質や霊性の意味が宿り”、“演奏者は物の霊性の響きに耳を澄ませ、共鳴させる媒介”、であり、音楽は自然・楽器・人間が一体となる儀式的な行為だったといえる。

古代日本の思想で「物そのものが鳴る」とされたのは、まさに物の中に宿る霊性が音として現れることを意味していた。古代人は、「耳で聴く」以上の体験をしていたはずだ。楽器の素材である竹や木、皮などの物の持つ「存在の質」が音に表れる、と言ったらいいのだろうか。

古い楽器は、「物の怪」にもなるようだ。人智学では、音楽は“物質の最も希薄化した霊”といわれるが、楽器は、霊界から物質界に音を沈めるための“器官”のような役割を持つ。

琵琶・琴がとくに霊性を帯びるのは、
木はすでに「植物のエーテル体」を強く含む領域から来ており、乾いてもなおエーテル的記憶の“型”が残る。人間の感情は、この“型”の中に痕跡を刻みやすい。という理由による。また、長年弾かれることで、奏者の意志・悲しみ・祈りがそこへ注入される、という風にみる。

それを日本文化は、楽器に魂が宿る、怨念が籠る、自発的に鳴る、夜中に音を立てる、と言うように擬人化して表現した。だから「物の怪」とも言われる。

天台宗のお坊様は、琵琶を弾き、「妙音成仏」を目指す修行をされると聞いた。わたしは、ギターで悟ることができるだろうか?