人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

怒りと“親しめる”かもしれない話

四天王

運慶展で展示されている四天王について思うこと。

昔から、「この怒りの表情は何なのだろう?なぜ怒っているのだろう?何に対して怒っているのだろう?」という疑問に、心から納得のできる答えを得られず、落ち着かなかった。今もそうだが、人智学的に考え直してみると、少しは説明がつきそうな気もする。

それは、見かけは怒っているように見えるが、天たちのものは、日常で抱く人間的な怒りとは質がまったく異なり、その内的な動機というか、天意というか、は全然違うのではないか、という見方による。

人間が抱く怒りは、多くの場合、傷つけられた自我の防衛反応や、恐れ・不安の裏返し、「相手を排除したい」「支配したい」という衝動といった、自己中心的な力から生じる。

四天王や不動明王などの忿怒相は、それと同じとは思えない。人間ではなく、仏なのだから、自己中心的な力とは反対のものを示しているはずである。だから、すべて「他者を救うための怒り」と言うことができる。

無明を焼き尽くす炎であり、迷いや悪を打ち砕く剣であり、弱き者を護るための恐れ知らぬ力は、愛と覚醒への意志が宿っているように目に映る。だから、その表情は「怒っている顔」ではなく、「目覚めた力の象徴的形」であり、地上的な煩悩を制御する強靭な意志の形といえそうだ。

でもなぜ、それが人間の目には“怒り”に見えるのだろうか?

ここで人智学的な視点で「知覚」というものを解釈すると、人間の知覚は、強いエネルギーは直接受け止めることができず、あくまで「心理的なイメージ」としてそれを翻訳し、変換しないと、取り入れることができない、とされている。天界のパワーをそのまま受け取ったら、おそらく脳が焼けてしまうだろう。

圧倒的な霊的パワーを感じ取ったとき、私たちの心は“怒り”や“恐怖”というイメージの形でしか処理できないようになっている。仏の忿怒相は、「強度が高すぎる慈悲」といえ、人間は、感情翻訳により、「怒りのようだ」と読み取ることしかできない。

仏の怒りが向かう先は「悪」や「無明」だ。それを破壊し、燃やし尽くす力は、人間の感情世界では、破壊 = 恐怖 = 怒り、という連想が自動的にはたらき、霊的な「変容」や「浄化」は、まだ眠っている意識にとっては“攻撃”のように見える。そのため、人間には「怖い顔」「怒っているような顔」と感じられる、という解釈も成り立つ。

運慶などの仏師たちはこの「霊的力」を、人が受け取れるかたちで造形した。それが「怒りに似た姿」になったと言えるのではないだろうか。

明王たちの「烈しき慈悲」に対して、観音のもつ「静寂の慈悲」というものもある。

慈悲は、「優しさ」ではなく、すべての生命を目覚めへと導こうとする宇宙的な力だ。ブッダは相手をみて説法を変えたと言われているが、それは、心が柔らかい者には微笑む観音として現れ、無明や我執に覆われた者には炎の明王として現れる、とも言いかえられる。

「観音的愛があまりに高まると甘美さや逃避に陥り、明王的意志が強すぎると硬化や暴力になる。」という一面もありそうだが、

1.怒りや強い意志のエネルギーを感じたとき、それを「破壊」ではなく「浄化の火」と見なす。
2.その火の中心に静かな観音の心を見出す。
3.火と静けさが同時に在る状態を感じ取る。

というように、仏像の前でじっくり瞑想すれば、慈悲のふたつの面が統合された意識が持てると思う。

会場の大変な混雑の中では、その願いはとてもかなわない。図録を観ながら、思いを深めることにする。