人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

生命をモノ扱いすること

立て続けに、生命を考えさせられる機会があったので、これもご縁と思い、考えてみた。

ひとつはテレビで放映していた、「量子農業」という、聞きなれない技術のことだ。中性子を植物の種に当てるとその遺伝子を効率よく破壊できるので、遺伝子の再生もよくでき、“品種改良”が早くできるといったものだ。

もうひとつは、東京大学の公開講座で聞いた「生物の老いたり死んだりするわけ」の講義だ。講師は、定量生命科学研究所の教授だった。

テレビに出ていた技術者も東大の教授もたいへん徳のあるすばらしい方とお見受けした。話を聞いていて、誠実な人柄だと直感した。

ただ、言うまでもないが、それを研究している人の人柄と、「生命とはなにか」を真に知ることとは別物だ。

最も気にかかったのは、実は農業技術や生命の老いの研究内容ではい。

それは、「定量生命科学研究所」という名称だ。東大のHPの説明では、

物理量に基づいた生命現象への新たなアプローチ
生命のしくみを実験と数学で解き明かす
正確性や解像度、網羅性に優れた新しい手法を積極的に採用し、データ駆動型アプローチと組み合わせることで「定量性」「再現性」にこだわった生命科学研究を展開することを本研究所ではめざしています。

とある。「定量」と書いてあったのが、はじめ何かの間違いかと思ったのだが、そうではなかった。生命を量で把握できると思いこんでいるのか、「生命を自然科学の枠で完全に理解可能か」という認識論的チャレンジなのかはわからない。

定量的生命科学は、生命の本質を分子や遺伝子、細胞やネットワークとして捉え、数式やシミュレーションで記述する。生命の成長と発生は、反応拡散モデル、遺伝子制御ネットワーク、細胞運動モデルなどで数理的に説明する。

そのような方法論で生きたものがわかるのだろうか?という疑問が湧く。

そこで問いを立ててみたのだが、「定量的生命科学があるのなら、生命の質を研究する科学はないのか?」「その二つを統合する道は?」というものだ。
単なる技術的な統合ではなく、精神的・倫理的次元を伴う意識的な統合だ。

調べてみると、量的・技術的アプローチは世界中で圧倒的に主流で、生命は「測定・予測・操作可能な対象」として扱われている。霊的・倫理的・質的側面を統合的に扱う視点は非常に限定的で、合成生物学・AIによる生命研究では倫理委員会や「生命の尊厳」についての議論はあるが、質的意味づけや精神的直観の導入はほとんどない。

ただ、ほんの一部の芸術家、哲学者、霊的実践者の間では、科学的知と霊的知の統合的理解を追求する試みがみられる。

哲学の領域では、いくつかの思想があるようだ。ミシェル・アンリの現象学的生命研究、ベルクソンの生命哲学の流れ、そしてシュタイナーの生命観がある。

現代の潮流では、生命を相互関係のネットワークとして捉え、固定的な個体ではなく“流れ”として理解するポストヒューマン的生命論や、存在を静的な“もの”ではなく、出来事として捉えるホワイトヘッド的生命論などがある。

現代における“精神科学的生命研究”のプロジェクトも大学などにあるようだ。哲学・意識科学領域において「現実」という概念を再定義しようとする研究プロジェクトとか、「物質」「生命」「人格」という三つの概念をキーワードに、自然科学と哲学の交差を探るプロジェクトがあり、「生命・死・自然」の哲学を扱う国際誌もでている。このようなジャーナルの存在自体が、「生命=対象化された物」という前提に挑む学問的潮流があることを示している。

これらのプロジェクトは、一般にはほとんど知られていない。現代の教育・メディア・研究資金の大部分は、「測定可能で、再現できる現象」を扱う自然科学に集中している。「生命をものではないものとして扱う」研究は、定量化が難しい、再現実験ができない、科学的に証明しにくい、と見なされ、主流的学問の“周縁”に置かれてしまう傾向がつよい。

それに、研究が哲学的・内面的すぎて、一般の人がすぐ理解できる「結果」や「テクノロジー」ではなく、むしろ「問い方」や「意識の構造」を扱うために、メディアでは紹介しにくい面がある。

それでも、「AI時代の生命観」への危機感があり、「生命とは情報なのか」「心や意識も再現できるのか」といった問いが、一般の人々の中にも浮上しているような気がする。

新たに「意識科学」という研究も始まっているようだ。危機感を与えてくれるAIに感謝しなければならない。