多くの方は、今ついている職業やその形態、また収入の多寡について思う所が多いと思われる。
ルドルフ・シュタイナーは、職業について数多くの観点から言及している。彼の人間観・社会観において、職業は単なる生計手段ではなく、「他者への奉仕を通して自己を実現する行為」とされている。この考え方にどれだけ救われたかを思い出し、何かのお役に立てればと、共有することにした。
シュタイナーは端的にこう言っている。
「人間は、自らの能力を他者の必要の中で生かすとき、はじめて真に自分自身となる。」
彼は、職業に深くかかわる経済生活というものを「協働」や「相互奉仕」に基づくものと捉え、競争や利己的利益を目的とする経済のあり方を批判した。ドイツ語の「Beruf」には「職業」であると同時に「召命」の意味もあり、シュタイナーは職業を「個人の魂がこの地上で果たすべき使命」と理解していた。これを言い替える言葉がひとつだけある。それは“天職”だ。
シュタイナーは、教師の仕事は「他者(子ども)の成長を助ける創造的行為」と言っているが、この考え方はまさに、他の職業でも言いうる「職業観の原型」と言っていい。
「経済生活では、他者のために働くという意識がなければ、真の健全さは得られない。」という主張は、職業の種類を問わず
•生産者は消費者のために働く
•商人は人と人を結ぶ媒介者である
•労働者は社会全体の福祉の一部を担う
といった協働の理念に基づいている。つまり、どの職種であっても「奉仕」と「連携」が中心原理となる。
シュタイナーは「どの職業が優れているか」ではなく、「どの職業も、正しい意識で行えば霊的・社会的な奉仕となる」と考えていたふしがある。つまり、本当に文字通り、「職業に貴賎」はないのだ。個人的には、社会的に上の者と言われている職の人ほど、賤しい者が多いと感じているが…。
「企業に勤めること」つまり、現代的な意味での「会社員」「雇用労働」という形態について、ルドルフ・シュタイナーは明確に語っている。
企業による労働の機械的・分業的な組織化が、人間の精神や創造性を奪うと警告している。企業が効率と利益を中心に運営されると、働く人々は自らの意志や創造力を発揮できず、「自動機械」的存在になると批判している。そのため、単なる「雇われて働く」関係を超えて、「協働」や「自己の使命に基づく働き」を取り戻す必要があると説いた。
シュタイナーは、企業に勤めること自体を否定してはいない。重要なのは、どのような意識で働くかという点だ。したがって、企業に勤める人も、自分の仕事が社会のどんな必要を満たしているか、他者への奉仕として仕事をしているか、を自覚することで、職業を霊的な使命に変えることができるとされる。
シュタイナーは「自由業」つまり、雇用されず、自らの判断や責任で働く職業についても、明確な見解を持っていた。むしろ、「自由業的な働き方」こそ人間本来のあり方のモデルだと見ていた。
自由業は「精神生活」に属する職業であり、ここでは、個々の人間が自分の内なる直観や良心、創造性に基づいて働く自由が尊重されなければならない。それが、社会の健全さにも不可欠なのだ。シュタイナーは、言っている。
「真に自由な職業とは、人間が自己の内的使命を意識し、それを通して世界に奉仕することである。」
シュタイナーは、自由業を特権的に扱うわけではなく、むしろ彼は、あらゆる職業が「自由業的性格」を取り戻すべきだと考えていた。
「誰もが自分の仕事を自由に創造的に行うとき、経済生活もまた精神を持ち始める。」 つまり、「自由業」は職種分類ではなく、人間の働きの理想的なあり方の象徴でもある。そのあり方とは、“自ら考え、自ら決断して行動する” ことに他ならない。
彼はまた、賃金のあり方こそが現代社会の病の核心にある、とも言っている。「人間の労働が商品として扱われること、これこそが社会問題の根本である。」という発言で、それがよくわかる。
人間の労働そのものが「買われ、売られる」ものとして扱われると、それは、人格のうちの“働く力”を商品化する行為であり、人間の尊厳を損なうと考えたのだ。
シュタイナーは明確にこう述べている。
「労働の“対価”として賃金を支払ってはならない。支払われるべきは、労働の“成果”である。」
対価と成果の違いをよく、見極めなくてはならない。「労働そのもの」ではなく「働いた結果がもたらす価値」に対して報酬が与えられるべきという考えだ。労働それ自体は、人間の生きる営み・社会的奉仕であり、本来“交換価値”ではない。商品として取引できるのは、労働の結果(製品・サービス)である。労働する生きた人間と、その結果を混同すると、とんでもないことになる。こんな簡単なことが現代ではわからなくなっているのだ。
したがって、シュタイナーは「労働市場」や「労働力の売買」という概念そのものを否定した。当たり前すぎる結論だ。
賃金の意味については次のように考える。
「各人は、自らの労働によって生み出したものを、自分のためにではなく、他者のために行う。そして、自らが生きるために必要なものは、他者の労働を通して得る。」つまり、賃金とは「自分の労働の値段」ではなく、社会的協働の中で、お互いの必要に応じて分配されるものである。
「賃金は、労働の量や効率によってではなく、人が人間として生きるのに必要な条件によって決められるべきである。」と言われるのは、賃金が平等の原理ではなく“友愛”の原理で働いている、という意味だ。
私の「人間として生きるのに必要な条件」とは、今は何だろうか?少なくともこのブログを書くのにほとんどお金はかからない。