今日は、シュタイナー教育の先生の講座を聞き、小学校で行われている、体を使った授業を経験させていただいた。
お遊戯のように見えるが実は、体を動かすという単純な行為の中に、霊的にすごく深いことをやっているんだ、ということを学んだ。知識を詰め込む今の公的学校では、絶対に体験できない内容だ。自分も小学生に戻った気分で熱中してしまった。シュタイナー教育は、本来、年齢には関係ないのだ。7才でも70才でも。
シュタイナー学校の教師は、子どもひとりひとりが、この世に生まれてきた理由を、原則としては心得ている。それを見守るのが教師の務めだ。
ワークショップをしていて、感じたのが、「交ざりたい」という心情だ。それは単なる社会的欲求や孤独の裏返しではなく、魂の本質的な衝動のように思える。
人間は太古の宇宙の発展の中で、もともと神的存在と「一体」だった。やがて、自由を得るために「分離」し、「個」としての意識を与えられる。この「分離」は祝福でもあり、痛みでもある。だから、「交ざりたい」という心の動きは、この根源的な分離に対する霊的郷愁で、「もう一度、他の存在と意味深くつながりたい」という宇宙的記憶の再現なのかもしれない。
人智学では、魂の「交わり」には二つの方向があるとされる。溶解的交わりは、他者や集団に自我を明け渡し、安心を得ようとする衝動で、これは「個の輪郭」を失う危険を含む。
一方、共鳴的交わりは、それぞれが独立した存在として立ちながら、響き合い、共に一つの調和をつくる。これはオイリュトミーや芸術における「フォルメン」のようなあり方だ。
地上での出会いや共同は、偶然ではなく、しばしばカルマ的な再会とみられる。誰かと「交ざりたい」と感じるとき、その背後では、過去のつながりや、今世での課題が働いている。それゆえ、交わりは学びの場といえ、人間は他者との関係を通して、自我の輪郭を「磨きながら開く」ことを学ぶ。
魂が孤独を深く経験すると、自然に「交ざりたい」という衝動が湧き上がる。しかしそれは、もう以前のような群れ的安心ではなく、意識的に、自由に他者と関わりたいという欲求へと変化している。
他者と真に交わるためには、自分の感情が他者の感情を呑み込まない強さと、他者の存在を内的に“感じ取る”空間とが必要だ。
今日のセミナーとワークショップは、私たち自身の意志で愛する力を育てるための、強いエネルギーをもらったような気がする。