人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

二つの縛りから逃れられないのは

私は、いつも二つの命題に縛られているような気がする。「何のため?」という目的の確定と、「なぜなら」といういいわけ探しだ。

「何のため?」というのは、目的の牢獄といえる。「何のためにこれをするのか?」という問いは、本来なら行為に方向性を与えるものだが、いつしか行為そのものを目的の従属物にしてしまう。そうすると、「純粋に存在すること」や「ただ行うこと」のなかにある‘自由’が失われる感じがする。

芸術家が「評価のため」に創作しはじめると創造性が枯れるように、「何のため」は人間を手段化の呪縛に閉じ込める力を持っている。

一方、「なぜなら」は、原因の牢獄だ。「なぜなら」は、行為や感情を説明し、正当化するための言葉だ。その説明の背後には「責任の所在」や「合理性の証明」を求める社会的圧力がある。だから、いつも、“言い訳”を探すのだ。その結果、「ただそう感じた」「ただそうしたかった」という根源的な生の衝動が抑圧され、人は「言い訳の物語」を作らざるを得なくなる。

興味深いのは、「何のため」と「なぜなら」のあいだには、どちらにも属さない“いま”があるということだ。そこには理由も目的もなく、「ただ息をする」「ただ見ている」「ただ感じている」という純粋な瞬間があるはずだ。

この“いま”に目覚めることが、「なぜなら」と「何のため」という時間的呪縛から解放される道のように思える。

私は、「何のため」と「なぜなら」という二つの問いからの解放を、人が“自由の霊”になることへの道と見る。

「何のために生きるか」を問うことで、未来に理想像を投影し、そこへ向かう意志を持とうとするが、それは、未来という幻想的な“他者”に自我を明け渡す行為でもある。

自由の霊に至る存在は、未来を支配しようとせず、未来を創造の流れとして受け入れる者になる。つまり、目的のために生きるのではなく、「目的そのものが生まれる場として生きる」ことを続けるのだ。

「なぜなら」によって、過去の因果に基づいて行為を説明しようとするとき、私たちは“自由な意志”を失い、カルマの単なる反復者となる。

自由の霊の本質は、「善が“必然”としてではなく、“愛から”行われる」ということにあるように思われる。それは、“なぜそうするか”でも“何のためにそうするか”でもない。その行為が、その瞬間、宇宙の秩序と調和しているから行うのだ。

人間は悪に出会うとき、理屈は無力になる。「なぜなら」では説明できず、「何のため」でも納得できない。そこで人間は、思考でも感情でもなく、自己の中心そのもので応答するしかなくなる。そのときに現れる行為こそ、「自由の霊」の萌芽だと言えるのではなかろうか。

他者との人間関係で考えてみると、「なぜあの人はそうなのか(なぜなら)」と説明しようとすることも、「どうすれば関係を良くできるのか(何のため)」と目的化することも、どちらも魂を同じ枠に閉じ込めるような気がする。

理解されなくても愛すること、傷ついても沈黙を選ばないこと、相手の行為の中に、その人の魂の苦闘を見抜こうとすること、そのような姿勢の中に「自由の霊」は息づき始めると信じている。