人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

魂が「変形」することについて

精神的な領域で、ある存在を認識した時、それが善き存在に見えたとしても、その時「これを利用してやろう」と思った瞬間、別の形態に変化する、ということを聞いたことがある。現代のアニメや古代からの神話によく出てくるテーマだ。

これは、対象の本質が“自我の意図”に応じて変化すること、と言え、利己心の不在こそが、精神世界を正しく“見つづける力”の条件であることを示している。

そこで、「この経験に最も近いことを日常の中で見つけられないか」という問いを立ててみた。

ひとつは、何らかのアートを創作しているときに起きる。美しいイメージや旋律がふっと閃いた瞬間、「これは使える」「人に評価されそうだ」と思った途端に、そのインスピレーションが霧のように消えてしまうことがある。それは、精神界で「精神的存在が形を変える、または消える」のと同じ図式だ。つまり、利用意図が精神性を破壊する。

もう一つは、他者との対話の際に起きる。誰かと心から通じ合った瞬間、突然その人が“光って見える”ように感じることがある。しかし、次の瞬間に「この人から知識や経験を引き出そう」、「仲良くなって得しよう」と思うと、その光がすっと消え、相手が“ただの人間”に見えてしまうことがある。他者の本質が、自分の意図の清らかさ、あるいは、濁り具合に応じて顕現したり隠れてしまったりするという現象だ。

さらに、自然との合一体験もあるかもしれない。山や海の美しい風景を見ていて、ある瞬間に“自然と一体”になるような感覚が訪れる。けれども、「この美しさを写真に撮って残そう」と思った瞬間に、自然の言わば“生き生きした沈黙”が消えてしまう。これも、精神的な「形態の変化」を物質界に写した形といえる。意識の波が観照から占有へと移る瞬間に、対象の本質が姿を変える。

「利用」という発想は、精神的には“力の方向を自分の自我中心に湾曲させること”を意味する。それによって、精神的形象はその瞬間に「閉じる」か「去る」か「歪む」。

自然や芸術や人を評価せずに見ること、ただ「そこにあるもの」として受けとめるというトレーニングが必要かと思われる。「美しい」と思った次に「得よう」と思った瞬間、自分の内で何が壊れるかを感じ取り、自覚する訓練だ。

アニメで思い出すのは、『もののけ姫』だ。清浄なる霊が、怒りで呪いに転ずる。神が“恨み”を抱くとき、その姿は闇へと変わる。タタリ神は、もともと森を護る存在だった。しかし、人間の弾丸によって負傷し、怒りと苦痛が霊的毒素となって暴走する。その結果、彼の身体は黒い触手状の呪いへとモーフィングする。これは、善なる霊が“怨念”という人間的情動に触れた瞬間の転化といえ、「霊的存在が人間の負の感情に感応すると形を失う」例だろう。

悪しきものが人間の利他性によって、善き存在に変わる、という事例もある。

『風の谷のナウシカ』だ。「憎しみの巨神兵」が、“生命を護る光”へと転ずる。王蟲の怒りが最高潮に達したとき、ナウシカの犠牲的愛に触れて、群体の色が血のような赤から黄金の光へと変わる。これは明確にわかる激情・感情の浄化の描写だ。ナウシカの“死を超えた意志”が、王蟲たちの荒ぶる波動を鎮め、形そのものを柔らかく変える。

日ごろ、自分の「自我の意図」がどの方向をみているのか、よく見つめておきたい。