小松和彦先生が文化勲章を受章された。妖怪ファンの一人として、お祝いを申し上げたい。
先生の妖怪論は、「妖怪とは、人間社会が自らの境界を意識化するために生み出した他者である」という思想に集約されると思う。「怪異現象」や「昔話の登場人物」としてではなく、人間社会の秩序・価値観・境界を映し出す文化的存在として捉えていらした。
先生の立場は、妖怪は「現実にはいない」が、「人間にとって実在している」というものだ。科学的実在(物理的存在)ではなく、文化的・心理的実在として位置づけられていた。
人智学を学ぶ者にとって、以前からこの点で、よくわからなかった。「現実」と「実在」のとらえ方が違うせいである。「実在とは何か」「現実とは何でできているのか」という問いのほうを、逆に妖怪が提起していると先生はお考えになっていたようで、「見えないもの・説明できないものを、いかに“物語”として実在化してきたか」を示す象徴として観ている。
妖怪譚における「見た」「遭遇した」という証言を、「虚偽」でも「錯覚」でもなく、“体験の現実”として尊重している。先生は、こうおっしゃっている。「妖怪を見たという体験は、語り手にとっては紛れもなく“実在”である。その実在のあり方を理解することが、民俗学の課題である」と。
人智学の立場に立って、「文化的・心理的実在」というものが何を指しているのかを明確にしなければならない。
シュタイナーはこう言っていた。「実在とは、精神的に活動しているもの」、「実在とは、精神が働いているところにこそある。物質は、すでに霊の働きが“結果”として凝固したものにすぎない。」
ある存在が実在するとは、それが「他の存在との関係の中で働いている」ということを意味する。人間の「文化」や「心理」には、他の存在が関与しているのではあるまいか?
小松先生のお考えとシュタイナーは、一見まったく異なるようでいて、「見えないものを現実としてどう扱うか」という観点では深く共鳴している。ただ、「現実」のとらえ方が微妙に違うだけだ。
小松先生は妖怪を「人間世界と異界の境界に現れるもの」とし、シュタイナーは自然界の背後には霊的な働きを担う中間存在たちがいると説いた。「人間の激情や恐怖、迷信や怒りが、そのような存在に歪んだ形を与え、それが悪霊的・怪物的形相として顕れることがある。」と言っている。
つまり、妖怪とは「人間の魂が自然界に投影した歪み」でもある。
小松先生が「異界」と言っていたものとは、何なのだろう?
「異界」は、人間の生・死・日常・非日常といった秩序の「境界」に現れるものとして位置づけられ、夜・山・海・村はずれ・祭りの場など、「日常と非日常が交わる場所」が異界的な空間とされる。妖怪・神・死者・精霊といった存在は、まさにその「秩序の狭間」に出現するわけだ。
「異界は、社会の想像力が生み出したもう一つの次元」ともおっしゃっていて、異界を人が制御できない力が働く領域として描いてもいる。小松先生にとっての「もう一つの次元的空間=異界」とは、物理法則の外にある霊的次元ではなく、文化的想像力が構築する“もう一つの現実”であり、現実世界と地続きに存在する〈意味の異なる空間〉ととらえていたようだ。
しかし、「文化的・心理的実在」は、単に人間の想像力が生んだもの以上のものを含んでいるような気がする。それは、文化と心理は、何が生み出しているのか?という問いでもある。
私は今、勝手にこのようなことを想像している。「小松先生は本当は霊界の存在を主張したかったのでは?」という疑問だ。
先生は明示的には霊界の実在を肯定していない。しかしその一方で、先生の文体や論理の「奥行き」には、霊界的リアリティへの憧れや“触れてはならぬ実感”が潜んでいるように感じられる。つまり、「霊界を学者としては語れないが、人間としては感じ取っている」という二重構造が見えるのだ。
先生は、「霊界は存在するか」ではなく、「なぜ人々は霊界を信じるのか」という立場に立っている。民俗学者としては当然だ。あくまで社会的想像力の産物としての異界であり、霊的実在としての「霊界」ではない。
とはいえ、小松先生の文章を読むとしばしば、学問的記述の奥に「言葉にならない畏れ」や「聖なるものへの感受性」がにじみ出ている。学問的には中立を保ちつつも、「目に見えぬ世界」を感じ取る人間の根源的感受性を肯定しているように読める。
小松先生は繰り返し、「近代化によって異界が消えた」と述べている。しかしそれは「もう信じられなくなった」ことへの批判というより、“信じられた時代”への喪失感・郷愁の表明と言った方がいい。
先生の文には、まさに「霊界の実在を信じることができた人間の在り方」への敬意がこめられている。霊界そのものを語ることは避けつつも、「霊界を感じる能力」こそ人間の本質的力の一つだと感じていたに違いない。あくまで私の想像だが。