最近よくヴィランという言葉を聞く。悪役・敵役の登場人物、あるいはその演者のことだそうだ。テレビ番組でも「ヴィランの言い分」というのがあり、その紹介文は、このように表現されている。
“ゴキ〇リ、二酸化炭素、ムダ毛…「汚い、有害、醜い」と、世間から忌み嫌われる悪役"ヴィラン"。でも悪役にだって、聞いてほしい"言い分"がある!最新研究で解き明かされる驚きの能力の数々で、実はちょっぴり魅力的な、ヴィランの本当の姿に迫ります!”
この素晴らしい文句に引き付けられてしまった。悪というものの、根源的な認識に迫っているからだ。
ひとつ問いを立ててみた。「ヴィランの存在価値とは何か?」である。ここでは、「悪」というものの宇宙的・人間的意義の側面に注目して、問いを深めてみたい。
善が真に「生きた善」になるためには、悪による試練・誘惑・衝突を通らねばならない。つまりヴィランは、「成長の触媒」としての存在価値を持つ。シュタイナーの次の言葉が忘れられない。
「悪を経験したことのない善など、大した善ではありません。」
シュタイナーは、“悪魔”を単なる敵ではなく、人間の自由を生み出す対極的存在とみていた。もし完全に善なる世界しかなければ、人間は自動機械のように善を行うしかない。悪の力が働くからこそ、人間は「善を自ら選ぶ自由」を得る。この意味で、ヴィランは「自由を成立させるための必要悪」といえる。悪は「進化の教師」としての役割を持つと言ってもいい。
人智学的宇宙観において、ヴィラン(悪の霊)は宇宙の反対側から来た教育者だ。彼らがいなければ、悟性は鈍り、感情は貧しく、自由は得られなかった。つまり「悪」は、人間の自由の背景として必然的に存在する。宇宙は「善」だけでは閉じた静止した系に過ぎず、「悪」があることによって、世界は動き、学び、進化する。
ヴィランは、ダースベイダーであり、ねずみ男であり、バイキンマンなのだ。このようなキャラクターがいなければ、何とつまらない話になってしまうことだろう。この三者は、闇に沈むことを自ら引き受けた奉仕者だ。「宇宙の均衡を保つための悲劇的奉仕」こそ、その存在価値だと思われる。感謝しなければならない。