今日バスに乗っていると、下校中の小学生低学年の子たちがおおぜい乗ってきて、耳をふさぎたくなるほど、ものすごく騒がしかった。これは、嫌な思いをした、という感想では全くなく、彼らの生命力の奔流を、叡智の光の“地上のこだま”として感じさせてくれた、貴重な経験だと思った。このように、外的な騒音の中に、生命そのものの音楽が聞こえてくることがある。めまいを覚えるほどの騒音の海におぼれそうではあったが。
この経験で思い出した、人智学の言葉がある。想像もできないほどの話になるので、奇想天外な幻想文学とでも思っていただければいい。
それは、「死後の世界では叡智のエネルギーが強烈なので、死後を“生き抜く”には、それを弱めなければならない。」と言ったシュタイナーの言葉である。
シュタイナーは、死後の世界における「叡智の光」や「宇宙的思考の力」があまりに強烈であるため、人間の魂がそのままでは耐えられず、段階的に“弱められる”過程を経ると述べている。こんなふうに。
「死後、人間は全宇宙を貫く叡智の海の中に浸される。この叡智は、地上での思考が弱く映し出していたものの源泉である。しかしそれは、あまりにも強く、魂はその光を直接に受けとめることができない。」
この「叡智」とは、宇宙全体を貫くロゴス的思考力、つまり神々の思考そのもので、地上では私たちはそれを「弱められた反映」としてしか受け取っていないが、死後はその“原光”を直視することになる。弱められた反映とは、概念・知識のことだ。あえて言うが、多くの哲学もそうだ。
叡智の光は純粋であり、嘘や自己中心的な感情をそのまま露呈させてしまう。その意味で、叡智の光に耐えることが“浄化”の過程になる。
叡智の光は強烈だが、天体の知性を通して和らげられたかたちで与えられるといわれている。“叡智を弱める”という表現は、宇宙的存在の側が、人間が耐えうるように叡智の光を和らげてくれているという意味だ。人間が愛を通して叡智に近づけるようにする“宇宙的慈悲”の働きといえる。
「小学生の群れの騒がしさを浴びる」という体験は、死後に体験する“叡智の過剰さ”の、地上的な比喩・反映として理解することができる。「圧倒されるような感覚」は、人間の魂が“過剰な生命力・思考力”に包まれたときの反応を映している。
子どもたちの騒がしさは、過剰な生命エネルギーの奔流なのだ。生命力や感情、思考が外へあふれ出すように活動する。これは、「外に向かう純粋な創造衝動」であり、生命力そのものの舞踏ともいえる。
死後の霊界で体験する「叡智の光」も、性質としては似ているが、それは生命力ではなく、宇宙の思考そのもののエネルギーだ。どちらも、「個人の静けさや輪郭が失われるほどの強度」をもって迫ってくる。
バスの中で感じた感覚、「落ち着かない」「包まれる」「やや眩暈のようなもの」、それは、魂が外的エネルギーをどう受けとめ、どう“整える”かという学びの稽古場のようなものかもしれない。他者の生命力に対して静けさを保つことは、「外界の奔流に呑まれずに、中心を保つ」練習になりえる。
魂は霊界で光に包まれる練習を、すでにバスの中で始めているのかもしれない。今日は、本当にいい体験をした。