9月29日は、国連が定めた「食料ロス・廃棄啓発のための国際デー」だったそうだ。NPO法人日本もったいない食品センターが公表している食品廃棄物は、令和4年6月農林水産省発表の資料によると、
【事業系】:275万トン 【家庭系】:247万トン
とのことで、キログラムに直すと52億2千万キログラム。10kgのお米が5億7千2百万袋分で、これは世界全体が援助している食料の量の約2倍に相当するらしく、処理費用は年間2兆円にも及ぶそうである。
なぜ、このようになってしまったのだろうか?
責任を追及するのではなく、人智学の認識でこの状況を根源的なところから振り返ってみたい。
シュタイナーは、「物質文明が極端に進むと、人間は自らの生命を機械のリズムに合わせて食するようになる」と警告していた。100年以上前の話である。現代のファストフード・インスタント食品・自動調理機器などの増加状況を予見しているかのような言明だ。
これらの増加が大量のフードロスにつながっているのかどうかは、わからない。シュタイナーは、量ではなく、食物の質とそれを摂取する人間の心の状態を危惧していたからだ。その心配は、このように続く。
「現代の食物は、見た目や味は豊かでも、生命力が弱まっている。化学肥料や農薬の使用は、土壌の生命力を破壊し、食物から大地のリズムを奪う。遺伝子改変は、植物の個性を撹乱し、人間の感情体に混乱をもたらす。加工・冷凍・保存などの技術は、生命力を凍結し、「死んだ食物」に近づける」と。
ファストフード的な食を代表に考えてみると、それらは「栄養の摂取」だけを残し、「生命の交感」「宇宙とのリズム」を失った食であり、人間の魂を鈍化させる方向を向いているような気がする。結果として、現代人の食は「見えるものは豊かだが、見えないものが貧しい」状態にあると言っていい。
現代の速食・ながら食・食情報の過多の中で、人間は食物を十分に体験する時間を失っている。その結果、思考も「即時的・断片的・表層的」になっているのではないだろうか?もっとゆっくり消化するような魂のリズムが必要であり、「食を急ぐ」ことは「思考を急ぐ」ことと同義のような思いがする。
現代は、何事も効率を優先させねばならない(と思っている)時代である。シュタイナーは「時代に逆行せよ」とは言っていない。
意識的な食事が必要だと言っている。食材の由来・育ち方・調理法を想像力をもって感じ取ったり、食事中は静寂・感謝・集中を保ったりする。
「人智学的に食べる」とは、食物を通じて、世界と再び語り合うことだ。それは、祈りとほとんど同義の営みと言える。
それでは、安い工業食品をとらざるを得ない現代人は、どうすればいいのか?という疑問が湧く。有機農法で育てた食物を常に食べられるは少ない。
たとえ食べ物が完全に理想的でなくとも、“どんな意識で食べるか”が、食物の霊的作用を変える。コンビニ弁当であっても、レトルトであっても、その中にはなお「地球と宇宙の諸力の名残」が息づいている。それを“死んだもの”として無感覚に食べるのか、“かつて生命であったもの”として敬意をもって受け取るのか。この差が、食物の霊的作用を決定する。これが、食べる前に「いただきます」と言う根拠だ。食物に敬意がもてれば、当然「捨てたもんじゃない」ということに気付くはずだ。
実践のヒントとしては、
“食べる前に短い沈黙をもつ。「いのちをありがとう」「この物質の中に光がある」と心でつぶやく。食べながら「この栄養が、私の中で光に変わる」と感じる。”
などがあるだろう。
シュタイナーは、こうも言っている。
「霊的に見ると、浪費は悪の最も静かな形態である」
安い食品を大量に消費する現代社会は、“必要以上に取り込み、味わうことを忘れた文明”である。質が完璧でなくても、「食べすぎない」「捨てない」「感謝して使い切る」、この3つが、人智学的には強力な霊的防御になりえる。
現代の工業食品は、人間の自由を奪うためにあるのではなく、むしろ「物質が生命を失った時代に、どれだけ霊を見出せるか」という自由の試金石として現れている。食事は、日常の中で霊的に生きる訓練の最前線なのだ。
さあ、お昼の弁当をコンビニに買いに行こうか。