人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

祈りか? 願いか?

祈り

この拙い絵は、浅草の近くで私が書いた線スケッチだが、これを見返しながら、「祈り」とはどんな心的行為なのだろうと思い、人智学の見解を整理してみた。(どうでもいいことだが、絵の中の女性らしき姿は、私の女房である…。)

祈りとは、「人間の魂が霊界へ向かって自己を開く行為」として、非常に深い意味をもっているといわれ、また、「霊的呼吸、魂の呼吸」という比喩もされる。肉体的には吸って吐く呼吸をしているが、魂もまた霊界との関係において「受け取り」と「放つ」というリズムを持っている。受け取りは、感謝や畏敬とともになされ、放つことは願いと意志を表す。

祈りはこの霊的呼吸の「吸う」側にあたり、人間が自己を超えた存在(神的存在、天使など)に心を開き、霊的世界の力を受け取る行為とみなされる。酸素が自分の意志だけで吸われることとは、少し違う。

祈りを「自分の意志を霊界に押しつける行為」ではなく、「霊界の意志を自らに迎え入れる行為」と理解し、「こうしてほしい」と願うよりも、「わたしが霊的秩序にどのように調和できるか」を問われる。

祈る者は、霊的世界の響きを「思考・感情・意志」の三つの領域で感じ取り、自らの魂を整えねばならない。「ご利益など、もってのほかだ。」と言うのは、言い過ぎだが、謙虚な気持ちが前提となる。

人智学では、感謝の祈り、畏敬な祈り、奉仕・使命への祈りを特に重視している。これらは人間の魂を「自己中心」から「宇宙的秩序」へと向け、天上の存在たちとの響き合いをもたらす。つまり、祈りは宇宙の霊的秩序を魂に映す行為でもあるということだ。

それは「我が意志をなさしめ給え」ではなく、「汝の意志を我がうちに実現せしめ給え」という方向転換でもある。祈ることによって、人間の「小さな意志」が「宇宙の大いなる意志」に調律されていく。

それにしても、うちの女房は何を祈っていたのだろう?まさか、私の生命保険のことではないと思うが…。