人智学的つれづれ草

日常の体験と人智学で学んだことを結びつけ、広げます。

考古学は意識を“掘る”ことができるか?

古代文明を見直すテレビを見ていて、たいへん教えられたので、考えたことを書く。

紀元前9000年から8000年と言われる「ギョペックリ・テペ」の“文明”は、メソポタミア文明から5000年くらい古く、今から9500年前に消滅したそうである。考古学は、農耕時代になって狩猟文化が消えたとみている。

興味深かったのは、「農耕だけが文明を生んだ」という考えをひっくり返した点だ。また、「歴史学・考古学の解釈は、今私たちが生きている時代(の考え方)に影響を受けやすい」という意見は、とても大切な観点だと思った。なぜなら、その見方は、人智学の基本的な考え方と同じだからだ。

現代の主流の考え方とは、ひとつには経済重視というものだ。“経済”は、古代でいえば“農耕”にあたり、「農耕から文明が生まれた」という考えを、現代人は、何の疑問もなく、スムーズに楽に受け取ってしまう特性がある。

番組では、「人は生きるためのパンだけに光を当ててきた。人間はそこだけでは語り切れない」と結んでいる。パンではないものに注目するのは、素晴らしい洞察だと思う。「パンではないもの」は今のところ、考古学では直接扱わないので、それに関して考えてみた。

人類の意識の変遷について人智学で認識されていることを振り返ってみた。紀元前8000年前後と、現代に限定してみていく。

その時期は、人智学で“古インド時代”と呼ばれる時期にあたり、人は夢のような霊的意識を持っていたとされる。人類はまだ「自我」を確立しておらず、自然界や神々と一体的な意識をもっていた。目に見えない霊的存在を直接知覚し、現実と夢が分かれていなかった。これは「古代の透視的意識」または「霊視的夢意識」と呼ばれる。

現代は、意識魂の時代といわれ、人間は理性・科学的思考を通じて世界を理解する。これは素晴らしいことだが、同時に、物質主義・疎外・霊的喪失も深まるのが特徴だ。人間は「自由な思考」と「霊的再覚醒」を両立させる必要があると言われる。現代人の課題は、「科学的思考を否定せず、それを霊的に深化させ、芸術・宗教・科学が再び統合される未来を準備する。」ことである。

ここで、ひとつの問いを立ててみた。「古代人が何を見て、何を認識していたかを現代人が探るとき、注意するべき点はなにか?」というものである。思い浮かんだことは、

・現代の「自我的意識」をそのまま過去に投影しないこと
 現代人の意識は「自己と世界の分離」を前提にしているので、私が見ている、という「主観」が強く発達している。一方、古代人の意識は、自我がまだ形成されきっていなかった。彼らは「自分が見ている」というより、「世界が自分の中に語りかけている」と感じていた。したがって、古代人の神話や幻視の記録を「幻想」や「象徴表現」として片付けるのは、現代的誤解の投影とみるべき。

・古代人は、自然界そのものの中に意識を感じていたので、太陽・星・川・山が「生きた存在」として経験された。それは擬人化ではなく、実際に世界が霊的に語りかけていた。現代人がこれを理解するには、「対象としての自然」ではなく「語りかける自然」として自然を見る感覚を、想像的に再獲得する必要がある。

・現代の分析的・概念的思考では捉えられない領域がある。古代人の認識は「直観的・像的」であり、概念ではなく生きたイメージを通して世界を知っていた。現代的論理で「比喩」や「象徴」として分析すると、霊的実在性が失われる。

古代の霊的体験を再現しようとして、感情的・恍惚的なトランス状態に入るのは危険だ。シュタイナーは、それを「古い方法による逆行」と警告していた。自由な自我が失われ、古い霊的依存に後退してしまうおそれがある。明晰な思考を保ったまま霊的世界を感じ取ることが現代の課題である。

最悪、「自分は特別な霊的使命を持っている」と感じるようになり、他者を見下したり、教祖的立場に立とうとする危険が待っている。本当に注意しなければならない。それを回避するいくつもの訓練法があるが、ここでは省く。

シュタイナーが日ごろ言っていた言葉が思い出された。それは「私のいうことを鵜呑みにしないでください」というものだ。信じられない場合は、自分の信念によって生きればいいのだ。