
ふだん鋭角の思考習慣があるせいか、批判傾向があり、なんでも深く突き詰めてしまう性格なのだが、このような一種の緊張状態は長くは続かない。「鋭く深く」という姿勢も度が過ぎると弊害となる。鋭角ばかりだと、それが盲点になってしまう。
そんな風に思っていたら、きっと偶然ではないと思うのだが、あるテレビアニメをみた。矢部太郎さんの『大家さんと僕』という作品だ。
私は、この作品をはじめて知った。2018年に手塚治虫文化賞短編賞をとられたそうである。7年以上もたって知るとは、何と偏った読書生活をしてきたのだろうと思う。早速文庫を二冊取り寄せて読んでみた。
『大家さんと僕』には、私が持ってない、または知らないと思われる“人や性格や人生や生活”が描かれている。高邁な思想も人間の理想像も社会正義もそこには、表面上は見当たらない。そのかわり普段の暮らしの中にそれらすべてが込められているような気がしてくる。そこがこの作品の素晴らしい点だ。
ここで、分析などをしてはいけない所なのだが、この漫画を読んで思い浮かんだことがあるので、少し記してみたい。
それは、人間が持つ四つの気質のことだ。
人間の「四つの気質」は、単なる性格の分類ではなく、霊的本質と肉体構成の関係を示す“魂の表現”として捉えられる。その四つとは、多血質・粘液質・胆汁質・憂鬱質だ。それぞれ性格づけてみると、
多血質の人は、外界への印象にすぐ反応し、軽やかで社交的。だが印象が長くは続かない。魂が肉体を軽く使い、外界に開かれている。
粘液質の人は、穏やかで安定していて、変化を好まない。内的な生活に沈む。魂が肉体に深く沈み込み、慣性が強い。
胆汁質の人は、意志が強く、支配的で行動的。怒りや情熱が爆発しやすい。魂が肉体を強く支配しようとする。
憂鬱質の人は、重さと孤独を感じやすく、深い内省と悲しみをもつ。魂が肉体の抵抗を強く感じる。
といった具合だ。だれしも四つの気質をもっているが、その度合いは様々だ。私は、粘液質はあまり無いように思う。
なぜ、『大家さんと僕』を読んでいて気質のことを思い出したかというと、作者も大家さんも、どうやら粘液質が強いのではないか、と思ったからだ。私に欠けている気質である。作者は“もともと”、大家さんは“年のせい”もあるように感じられた。「まったり」という表現ほど粘液質にぴったりの言葉はない。
気質は変えるべき“欠点”ではなく、育てるべき“器”という見方をするとよいと思う。どの気質にも光と影があり、それが成長の手段となる。
シュタイナーは、「気質とは、魂がこの世の身体をどのように扱っているかの仕方である。」という趣旨のことを言っている。
日々の暮らしをもう少し「まったり」と過ごせればいいのに、と思うこの頃である。